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天狐あやかし秘譚
第82章 悲壮淋漓(ひそうりんり)
腐りかけた身体と脳、目の前で崩れ落ちそうになっている愛しい人。その姿を見ても、綾音は指先ひとつ動かすことができなかった。しかし、それでも綾音の心にはひとつの想いが強く、強くあった。

ーダリ・・・

東北であなたに会えて、私は変われた。
誰かのために強くなれた。
心が触れ合って、身体が繋がって、幸せをいっぱい感じた。

ああ・・・やっぱり、私、あなたを、あなたのことを・・・

「あい・・・し・・・て・・る・・・」

唇がゆっくりと動いた。

「ほう・・・その状態でも、なお『愛』を口にするか?」

ちらりと綾音を見下すようにイザナミは目をやるが、すぐに興味を失ったように、ダリの方に目を向け直した。

「ならば、愛しい男子(おのこ)が朽ちるさまを見て気が狂うが良い」

指先の黒い光が膨らみ、射出されようとする。
綾音の瞳から、赤い涙がこぼれた。それは腐りかけた頬を伝い、唇を伝って、ぽたりと地面に滴った。

そのとき、ぶわりとイザナミの胸からオレンジ色の光が溢れた。

「何じゃこれは?!」

しかし、現象はそれだけだった。オレンジの光は一瞬、周囲を照らし出しただけですぐに鳴りを潜めた。一瞬戸惑いの表情を見せたイザナミは特に問題がないと悟るや、再びダリを撃ち抜く準備をし始める。

「よい、死ね」

ビシ!

イザナミの指先から放たれた黒い光がダリの心臓を撃ち抜くべく空を走った。
だが、その光はダリを撃ち抜くことはなかった。イザナミが驚愕の表情を浮かべる。

「な・・・なぜ!?」

綾音が、両の手を広げ、ダリの前に立ちはだかっていた。
その胸に黒い光が突き刺さり、苦悶の表情を浮かべても、彼女は倒れることはなかった。

「傷つけ・・・させない・・・」

なぜ自分の体が動いたのか、このとき綾音自身にもはっきりとは分かっていなかった。ただ、体が動いた。そして、そうならば、するべきことはことはひとつしかなかった。

『ダリを死なせたくない』

彼女の心にあったのは、愛しい人を守りたい。その思いだけだった。
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