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波の音が聞こえる場所で
第9章 安奈という女について
―安奈- again
 誰かが作った誰かの歌に自分の姿を重ねるのは僕だけではない。
 僕の冒険も寒い日が始まりだった。寒い日なのに、僕はある男から冷たい水を掛けられた。まぁ、水を掛けられると言うことは。僕の過去の所業に水を掛けられる理由があったからなのだが。
 冷たい水を浴びせられて当然。いや、それくらいで済んで僕は幸運だったのかもしれない(多分僕は、冷たい水を掛けた男から一生恨まれるだろうが)。
 その後、僕は自分のスマホを踏み潰した(後悔先に立たず)。苦手なガキの声。大嫌いなガキの一言で僕は自分を見失った。
 冒険の始まりは上野駅。南に行くなんて選択肢は僕にはなかった(朱雀山城駅に降りたとき、僕は自分の判断を呪った)。北ならどこでもよかった。ただし、海辺の街で、そこには小さな小料理屋があって、暖簾をくぐると四十代の女将がいて、その人は僕にこう言うのだ。
「寒かったでしょ。こんな店ですが暖まってくださいな」
 お通しは肉じゃがだと思う(希望的観測)。女将は続けてこう言う。
「こんな日はビールじゃなくて熱燗にしましょ」
 女将の提案に異論などない。
 僕は間違いなく酔いつぶれる。カウンター席で酔いつぶれた僕の背中に、女将さんは自分の半纏を掛けてくれる。僕は半纏に沁み込んだ女将さんの匂いを感じながら眠る。
 振り返れば僕には愛の言葉を伝える相手がいない。1979年と違って今なら葉書を買わなくてもメールがその役割を果たしてくれる。お金だってかからないし、葉書を郵便局(コンビニでもいいが)に買いに行く時間も節約できる。だから現代は1979年よりも間違いなくいい時代なのだ……とは僕には断言できない。
 1979年にはスマートフォンなんてなかっただろう。小さな液晶画面を指でタップしながら文字を探し出し文章を作る超便利な機能がない時代だ。
 だから甲斐よしひろという人は、ペンを持ち、何かの紙にそのペンの筆先を走らせてクリスマスの歌を作ったのだ。辛くて、悲しくて、寂しくて、でも心の深いところに響くクリスマスの歌を。
 僕には愛を伝える人なんていない。それはつまり僕のもとには何も届かないということでもある(僕はクリスマスプレゼントを欲しいと言っているのではない)。
 やばい、泣きそうだ。いや、僕はもう泣いている。
 涙は冷たくなんてなかった。僕の頬に流れた涙は温かった。
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