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波の音が聞こえる場所で
第9章 安奈という女について
 まずい。非常にまずい。大人の涙をいっちゃんに見せてはいけない。でも涙はこぼれる。誤魔化すこともできるかもしれないが、何だかそれはそれで卑怯な気がする。と、僕が思案しているときだった。
「先輩」
「ん?」
 何だかいっちゃんの声がおかしい。
「先輩には安奈さんいますか?」
 えっ!まさかいっちゃんも泣いている……。
 いや違う、今いっちゃんが僕に求めているのは、僕に安奈がいるのかいないのかということだ。いない。いるわけがない。いたらこんなところで「借金まみれ」と呼ばれていない。でもいないと言うのもなんだか……ちょっと。
 こんなクソみたいな僕を慕ってくれるいっちゃんに嘘なんか言えない。
「安奈はいないよ。いっちゃん、僕には安奈なんていない。残念だけどさ」
 正直に言える自分が何だかかっこいい。でも普通はみんな正直に言うだろう。
「僕も……僕も」
 いっちゃん、感極まっている。
「……」
 大人はこんなとき、黙ってるものなのだ。無言、静寂、泣き声。
「先輩、僕もいつか安奈さんに会えるでしょうか?」
「会えるよ。絶対に会える。必ず会える。この世界のどこかにいっちゃんの安奈さんがいるよ」
「マジですか!先輩の言葉信じていいんですか!」
 いっちゃん少々絶叫。
「マジです。いっちゃん、僕を信じてくれ」
「了解です」
 涙声のいっちゃん。
「安奈か……僕も会いたいな、僕の安奈に」
「先輩」
「何?」
「バカみたいですけど、もう一回聴いていいですか?」
「いっちゃん、バカみたいじゃないよ。そんなわけないじゃないか。甲斐バンドだってさ、この『安奈』を僕といっちゃんに何度も何度も聴いてもらいたいはずだよ、絶対にさ」
「ですよね!」
 いっちゃんの絶叫止まらず。
 いっちゃん、スマホをタップしてもう一度『安奈』をリピート。 
 決まった。河口の端の少し高いところにへばりついているリサイクルショップlighthouseのクリスマスソング。甲斐バンドさんの『安奈』に決定!
「君たち何してるの?」
『安奈』再生中にも関わらず、久須美の余計な声。
「ひょっとして泣いている?」
 うるせぇ!久須美!男の涙をバカにするな!
「甲斐バンドも喜んでいるだろうね。『安奈』を聴いて泣いてる人がいるんだもんね。でもさ、坂口君といっちゃん、働いてよね」
「了解です」
 と、いっちゃん。
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