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いまやめないで このままでいて
第5章 第5話 過ぎた日の思い出を彼にあずけて

「以前、お会いしたことがあるのを存じ上げていました」
『花かすみ』は自分の店であることを告げてから有村佳緒里は坂田にそう言った。
「え? どうして?」
思わず彼が訊ねると、佳緒里が足元に座っている子犬のプードルに眼をやりながら静かに応えた。
「ずっと前に、この子がぶつかりそうになったことを覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、あのとき…」
「お急ぎのところをお叱りにならずに、頭を撫でていただきました」
彼も特に急いでいたわけではなかったし、自宅に犬を飼っていたから思わず手が伸びただけのことだと応えた。
「それに…」
少しだけ躊躇いながら佳緒里が続けた。
「弟にとてもよく似ていらっしゃるんです」
「え? ぼくが、ですか?」
シドニーで暮らす弟とはもう3年以上会っていないので驚いたのだと彼女は言った。
そんなことがあってから、朝の犬の散歩のときに坂田の姿を探していたのだとも彼女は言ったが、本社へ出社するとき以外にその道を歩くことはなかったから再び会うことはなかった。
「前にお店に来ていただいたときは、びっくりしましたが、そのお話はできませんでした」
店を休んでいたのは、療養していた夫が50歳の若さで亡くなったからだと話した佳緒里は思い出したかのように眼を伏せた。
「すみません、こんなことお話するつもりじゃなかったんですけど、つい…」
気を紛らわすように坂田の求めたコスモスとカスミソウのラッピングの手を動かしはじめた佳緒里に坂田は、「そうだったんですか…」としか言うことができなかった。。
「コスモスは水切りをマメにしていただくと少し長持ちしますから」
穏やかに花の扱いを伝える彼女の笑顔に坂田は無理を感じ取っていた。
「大変でしょうけど、元気になさって下さい」
取って付けたような言い方が自分でも情けなかった彼の言葉だったが、それでも佳緒里は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。
お庭でコーヒーお出しできますからまたいらして下さい」
あの庭のことだな、と思いながら坂田は温かい色の灯りが点る店をあとにした。

