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明君のお母さんと僕
第8章 包丁
「ごめんなさい。いま開けますね」
 明君のお母さんはいよいよ玄関の鍵を開けようとしている。
 僕はクローゼットの闇の中で息を殺している。
 玄関が開くと同時に、部屋の空気が一変した。
「何やってたんだよ!」
 有無を言わさず相手を威圧する怒号だった。
「ごめんなさい。シャワーを浴びていて。今日暑いから……」
 明君のお母さんは相手の機嫌を少しでも宥めようとするあまり、しどろもどろになっていた。絶対に逆らえない上下関係。夫と妻の場合もあれば、父親と息子の場合もある。
「シャワー? こんな時間から?」
 明らかに苛立った口調で、男は乱暴な足取りで部屋に入ってくる。
 僕が身を潜める明君の部屋は、玄関からの廊下のすぐ左手にある。
 男の足音がいますぐそばを通り過ぎていった。
「どうされたの?」
「営業でこの近くに寄ったからな。ついでに今日、仕事の資料を一つ忘れていたから取りにこようと思ったんだよ」
「そうだったのね。ご苦労さま」
「玄関の前にきてから、鍵ケースを会社に置いたままだったことに気づいてな。まあ、最悪、管理人もいたからな。お前が出かけているなら、取りにいけばいい」
「ごめんなさい。電話をしてくれれば、よかったのに」
「だから家の前で鍵がないことに気づいたんだよ! チッ」
 男は突然、怒鳴り声をあげた。舌打ちもした。僕の大嫌いな舌打ちだ。
 癇癪(かんしゃく)もち、という言葉がある。ずっと子供の頃、僕の母親がふと呟いた言葉だ。「お父さんは癇癪もちやから」──。
 パーン! 
 それは風船を手で割った時の音に似ていて、僕は心臓が止まりそうになった。
 明君のお母さんが殴られたに違いない。だけど、不気味な静寂が続く。
 「痛い」という悲鳴は聞こえなかった。
 それが怖い。脳裏には、リビングの床に伏せて動かなくなった明君のお母さんの姿が浮かぶ。
 白いワンピースの女の人が倒れて、ビクリとも動かない。
 僕はどうしても息が荒くなる。息を吐くたび、心臓が喉から出てきそうだ。
 耳を懸命に澄ました。物音一つもしない。どうしよう、どうしよう。
 明君、助けて。
 僕は発作的に、明君に祈っていた。柱の観音様ではなく、天国にいる明君にお願いした。
「……ごめんなさい」
 明君のお母さんの声がした。僕は胸をなでおろした。
「お前さぁ」
 あの男の声がまた聞こえてきた。
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