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明君のお母さんと僕
第8章 包丁
「この包丁、この前貰ったんだけど、切れ味がすごいの」
「へえ。そうなんですね」
「これでズブッと刺したら、死んじゃうかも」
 明君のお母さんと交わした会話が生々しく蘇ってきた。
 包丁だ。
 包丁を手にするんだ。

★

 僕はひとつ深呼吸をしてから、出来るだけ音を立てないようにゆっくりとクローゼットの扉を開ける。ここから出て、あとはリビングまで突進しよう。突然のことに明君のお父さんはさすがに驚くはずだ。その隙に台所で包丁を手にすればいい。
 やれる。僕はクローゼットから這うようにして出た。
 その時、頭に何かが当たった。いや、落ちてきた。
 なんだよ、これ。僕は頭の上に当たったそれを手にした。
 虫取り網だった。
 クローゼットの中に立てかけてあった僕の虫取り網が、扉を開けた拍子に倒れてきたようだ。
 明君?
 なぜそう思ったのか自分でも不思議だ。だけど僕は明君の意識を感じずにいられない。
 明君は僕を止めようとしている?
 公園でよく一緒に虫取りをした。明君は僕の虫取り網のほうが取りやすいというから、よく交換っこもしてあげた。
 殺すのが怖いから、思い出に浸ろうとしているだけなのかもしれない。
 それでも僕は数秒前までの感情が嘘のように消えていた。
 いまはリビングから物音はしない。
 何をしているんだろう。
 僕はそっと虫取り網を元の位置に戻すと、再びクローゼットの中で身を潜めることにした。
 明君のお母さんとも約束をした。「何があってもここから出たらだめ」と。
 そうなのだ。明君のお母さんのことを一番に考えると、僕はここにいないとダメなのだ。
 僕が明君のお父さんを殺したいのは、僕自身のためだ。明君のお母さんを守るというのは大義名分であって、僕は明君のお父さんを通して、自分の父親を殺そうとしていた。
 だけど本当にそんなことをしたら、一番困るのは誰だ。
 紛れもなく明君のお母さんである。
 明君のお母さんを本当の意味で守りたいのなら、僕は何があっても、こから出たらダメなのだ。
 暗闇のクローゼットの中、虫取り網の網の白さを見つめながら僕はもう一度誓った。

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