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第12章 【乱・反・射】
防波堤は決壊した。
私の瞳からは、あとからあとからと雫がこぼれ落ちた。

「―優しさが足りんと、畜生道に堕ちる。
優し過ぎると、この世は生きにくい。
難儀なことだ。ままならん」

詠うように囁く葵の祖父の膝に突っ伏して泣いた。
乾いた手のひらが私の頬を撫でた。

『…お祖父様は葵さんと同じ匂いがします』

「そうか‥それは良い。香りは、記憶に残る。記憶に留めておけばいつでも逢うことが出来る。
…儂はトキちゃんを抱き締めることも叶わなんだ。…どうしても記憶からこぼれ落ちる。お迎えを待つばかりよ」

強い風が吹き込み、庭の白い百日紅の花を散らす。
畳の上に花嵐のあと。
葵と同じ、ひなたの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
こんなに優しい祖母の想い人も、いつかはいなくなるのだと思うと寂しくなった。

「みちるちゃん、楽におなり。
心のままに生きるのは、何も悪いことではない」

*****

「―鍵を替えなさい。合鍵は預けなくていい。部屋を出ていく時にでも、持ってきなさい」

有無を言わさず、葵の祖父が馴染みの錠前屋に電話を掛ける。
何を言わんとしているか、すぐに気付いた。
大家のスペアキーを葵が勝手に使用していることに、葵の祖父はずっと気付いていたのだろう。

「心配しなさんな。アレは若い。時間が解決してくれる。
‥解決しなくともどうとでもなる。存外、人間はしぶとい」

唇に笑みを蓄え、葵の祖父が月下美人の蕾を見つめる。

「もうすぐじゃ…」

*****

新しく鍵を付け替え、数日が過ぎた。
葵の絵も写真も出来上がっていたけれど、どちらも葵に手渡せずにいた。
モデルの葵は笑っていたはずなのに、私が描いた葵は表情がなかった。
人物画にはそこそこ腕に覚えがあったのに、絵の中の葵は実際の葵と解離したまったくの別物に仕上がってしまった。
魂の不在。
抜け殻の、葵。

絵の中の葵は整った容姿を留めていたが、美しさはなかった。
ただ不思議な色の瞳が、虚無を見つめていた。

*****
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