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余熱
第9章 忘れる
そして、下川先生の家へと車を走らせてしまった。
着いたのは、こじんまりとしてはいるが、一軒家だった。
鍵を開けようとする彼女の左手に目をやってみても、薬指に光るものはなかった。
「あの、先生って…」
おそるおそる尋ねようとすると、
「結婚、してるわよ。」
今度は彼女に遮られた。
二の句が継げないでいると、彼女は扉を開け、俺の手を引き家の中へと誘った。
「主人は…
他の女のとこに通いつめて、ほとんど帰ってこないから、いいのよ。」
彼女はパンプスを脱ぎながら、淡々と言う。
そう言う表情には、夜目にも隠しきれないほど、寂しさが滲んでいた。
しかし、
「よくないです。
俺…不倫、はできません。
…失礼します。おやすみなさい。」
俺は咄嗟にそう言い放ってしまった。
そして引き留めようとして伸びてくる彼女の手から逃れ、彼女の家を出た。
来た道を戻る途中で、ふと葉月の言葉が脳裏を掠めた。
“ あの…わたしの家、こっちじゃないです…さっきの交差点を右に曲がらなきゃいけなくて… ”
今走っている道は、その交差点を右に曲がると続いている道である。
そして、彼女に電話を掛けるために生徒名簿を見たときに、ちらっと見た彼女の住所を思い出そうとする。
…確か、マンションだったはず。
するとその時、ポケットに入れていたスマホが震える。
――下川先生だろうか。
罪悪感で心が蝕まれていく中、画面を見ると、登録はしていないが見覚えのある番号が光っていた。
正確に言えば、その時初めて、自分はこの番号を覚えてしまっているのだと思い知らされた。
忘れることなど、全くできていないのだと思い知らされた。