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水蜜桃の刻
第14章 氾濫


「あのひと、私の家庭教師だったの」


それ以上は答えたくない、ごめんなさい──やむを得ずそれだけを答え、あとは口を噤んだ。


先生とのことなんて、誰にも話したくなかった。
昔のそれも、今のも。


だってあれは、私たちだけの秘密。


誰にも言っちゃだめだよ──先生の柔らかな口調で落とされた言葉は今も私を静かに縛り続けている。

けれどそれは決して苦痛などではない。
ふたりだけの秘密という、喜びとも言えるものだった。


そして私のその態度は本郷くんにも伝わったようで。


「いえ……俺こそ」


そう言ってそれ以上踏み込んでこようとはしなかった。


ほっとして、私はそこから立ち去ろうと


「……じゃ」


彼にそう告げる。

本郷くんは黙り込んだまま、もう何の言葉も返してはくれなかった。
きっと、あの人懐っこい笑顔が私に向けられることはもうないだろう。

そんなふうに思いながら伝票を手にしようとしたら、彼の手に防がれた。
俺が誘ったから、と俯いたまま口にする彼に


「……ありがとう」


そう言って、手を離す。
そのまま立ち去ろうとする私に、彼がその視線をくれることはなかった。


店を出て、駐車場へと向かう。


今までは、あからさまなほど向けてもらっていた彼からの好意。
それがそうでなくなることは、やはりどこか寂しさを感じる。

それでもやっぱり私には先生しかいない。
先生にしか惹かれない。
本郷くんにそんなふうに感じたことはない。
だからそう──それは仕方のないこと。

私にはその寂しさを感じる権利すら本当はないのだと……歩きながら、思った。



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