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星と僕たちのあいだに
第9章 涙のゆくえ
早苗は、心臓をつつかれる思いで部長のデスクの前に立っていた。
起立する早苗の足元から胸元へなめるように視線を這わせたあと、眼鏡をはずした部長は疲れたまぶたを揉んだ。
親指と人差し指で一枚の書類をつまみ、早苗に見えるように掲げた。
『シンガポールだ。
じき辞令が出る。準備しとけ』
部長の声を聞いたとたん、早苗は姿勢を正したまま一瞬、目をつむった。
近いうちに言い渡されるだろうと腹を括ってはいたが、とうとうこのときが来てしまったと、ずいぶん薄くなった部長の髪を見ながら早苗は思った。
部長から視線を滑らせると、正面の窓ガラスに映る姿勢の良い自分と目が合った。
顔色が変わったのを部長は見逃さなかっただろうと思いながら、早苗は、
『わかりました』
と一礼した。
フレデリックミシェルのアジア展開は、商標権獲得の計画段階からもくろまれていたことで、計画の立役者であり事業を順調に進めてきた早苗に、上海、もしくはシンガポール支店への転勤が言い渡されるのは、規定路線に沿うものであった。
期間は一年となっていたが、過去の転勤事例から考えると二年は日本に戻れない。
これまで海外ブランドが日本に進出する際、ブランドロゴの使用権を商社に供与する「ライセンスビジネス」の手法が一般的だった。
一流ブランドのロゴが入ったトイレのスリッパやバスマットが国内に出まわるのは、そういった商習慣のせいでもある。
だが、時代の流れとともにブランド側の市場戦略が変化し、商社を通さず直接日本市場に乗りこむケースが主流になった。
ライセンス供与によるブランド側の収入は、売上げの数パーセントにしかならないが、独自に日本法人を設立して直接管理すれば、ずっと大きな収益が見込めるからである。