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フルカラーの愛で縛って
第4章 音
■音■
梅雨が開けた木曜日。
詩織は、これまで弾いたことの無い楽曲をBARで弾こうと考えていた。
セピア色の喜劇王が生み出した、優しい旋律の、あの曲を。
槙野征ニという大きな存在と決別した直後は、決して弾くことを考えなかったであろう音楽が、詩織の頭の中で今、穏やかに奏でられている。あれから1年半、ようやく、ほんの少しずつ、世界は色を取り戻し、何かの蕾が開き始めた気がしていた。
職場近くの小さな神社で、詩織は境内に差し込む木漏れ日の中にいた。
小さな子どもの手を引いた若い夫婦が、砂利道をゆっくり歩いて賽銭箱を目指している。
都会の一角、忙しない歓楽街の中に、まるで、そこだけ時を止めたように存在する神聖な領域は、小さな公園代わりにもなっているらしい。参道の片側では、古銭(こせん)や昔の絵葉書を並べて売っていた。珍しい、そのアンティーク品の前に、大きなリュックサックを背負った外人が2人、何やら話し合いながら足を止めている。旅行の合間に、日本の風情あるポストカードでも買おうと思っているのかもしれない。
久しぶりに来る神域は、心の垢や、淀んだ澱(おり)を、一時、洗い流してくれる気がする。
暫く、その澄んだ空気に身を委ねてから、詩織は神社を後にした。
* * *
気の持ちよう、では無いだろうが、昼間、ふと神社に訪れたせいか、今日の詩織の演奏は、一際冴え渡った。
彼女自身、それまで感じていた奇妙なしがらみから、少しずつ解き放たれていくのを感じていた。
槙野との逢瀬を重ねながら音楽を奏でていた時は、時に贖罪や懺悔の思いが、どうしても音に滲んでしまっていた気がしている。そんなことは、誰にも分からないだろうし、誰も気づかないだろうけれど、演奏している身だからこそ、その違い、指の動きの軽さには、気づくものがあった。
今日も、白と黒の鍵盤は、詩織の指に寄り添い、共に音を語る頼もしい盟友だった。
胸の内で小さく感謝しながら、そっとピアノの蓋を降ろし、今宵の演奏を終えた。