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フルカラーの愛で縛って
第4章 音
男はワインに酔ったらしい。詩織が想像した通り、会話の途中から、次回作の構想が漏れ聞こえ、最後には詩織に「もう一度、デッサンを」と嘆願の言葉を向け始めた。
詩織は苦笑しながら立ち上がり、彼を置いて一人、キッチンへ向かった。
新しいグラスを取り出して水を入れ、そこに"保険"を混ぜた。
「これを飲むと眠くなって困る」と愚痴を言っていた友人から貰った、アレルギーの薬だった。
飲み過ぎは良くないからと、グラスを差し出した詩織に、男は疑いもなく中身を全て飲み干し、その薬は、彼女が期待した通りの効果をもたらした。数分後、「少し休む」と呟きソファに寝転んだ男を見て、詩織は鞄から別れの言葉を書いた手紙を出し、テーブルへ置いた。
豪華なオードブルの横に準備された、質素な茶封筒に入ったギャラを受け取り、部屋の中を見渡した。
清潔な部屋も、彼女の目には手垢にまみれ、汚濁(おだく)した空間に見えた。
もう、ここに来ることは二度と無い。
無言のまま、コートを手に取り、男の家を後にした。
それから1ヶ月後、槙野征二の新しい写真集が出版された。『あだばな』というタイトルのそれは、やはり海外では熱狂的なファンの間で高く取引されたが、日本では、どこかひっそりと芸術好きの間で愛でられる作品になっていた―――。
遠くから聞こえたクラクションの音にはっとして、詩織は記憶の底に沈みかけた意識を引き戻した。
時間にして数分程度だが、ぼんやりしてしまったらしい。
思い出したように呼吸をすると、苦笑して再び階段を歩き始めた。残り僅かのステップを、ヒールの音を鈍く暗がりに響かせて進むと、最後の一段を踏みしめるように、地上へ降りた。
ビルの裏手に来ることは滅多に無い。思った以上に薄暗い、その空間に長居をしていたくなく、詩織はやや足早に街頭に照らされた曲がり角まで進むと、大通りへ続く道に出ようとして、はたと足を止めた。
国崎の真剣な表情を思い出すと、素直に一歩を踏み出してはならないような、そんな予感がしたのだ。
(・・・・・・)
そっと、顔だけ横に倒し、詩織は大通りへの道を盗み見た。
夏の夜風に煽られて、彼女の柔らかい髪がゆらりと揺れた。