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【Jazz Bar『Dance』 作品メモ】
第3章 花火の夜(短編集)
「槙野さんが居なくなって……」
ポツリと呟いた詩織の言葉に、庵原が視線を落とす。
その話は、一緒に暮らし始めてからも、一度も語ったことが無い話題だった。
詩織から話さない限り聞くまいと思っていた名前だが、いざ、その唇で名前を紡がれると、例え死んだ男だとしても、穏やかな気分でいられない。
いや、死んで詩織の記憶に焼きついただろう男だから、胸の内がざわめくのか。
「あの人が、居なくなって。私、庵原さんのところに逃げてきて…、ただ、もう、苦しみたくないからって、庵原さんの優しさを利用したんじゃないかって…、最近、思うの」
詩織の声は、こんな時でも澄き通っている。
「あの人が怖くて、逃げ出して…、たった一人の人とさえ向き合うことを拒んだのに、……今更、誰かに甘えてもいいのかなって。庵原さんの優しさに寄りかかってていいのか、って。……これからも、庵原さんを利用していくのかなって、……そう思えば思うほど、自分がズルい人間だと思うし、汚い女だと思う」
1本だけ立ちすくむ街灯が、不規則に、一瞬、明滅した。
それっきり、詩織は沈黙し、庵原も数秒、無言のまま動かずにいた。
わずか数秒の時間が、重く長い無音に感じられた。
「詩織ちゃんは? …俺のこと、汚い男だって思わない?」
沈黙の後に、庵原が口にした言葉に、詩織が、ゆっくりと顔を上げる。