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夢見桜~ゆめみざくら~
第2章 哀しい現実
~哀しい現実~

 その夜、吟はひそかに寺を抜け出した。夜も八ツ(午前二時)を少し回った頃、こっそりと自分の部屋を出た。廊下を挟んで向かいに光円の寝(やす)む部屋がある。吟はそちらに向かって深く頭(こうべ)を垂れた。十一から教え導いてくれた第二の母とも言うべきひとである。
 思いもかけず、このような形で寺を出てゆくことになり、結果として裏切ることになってしまった。だが、吟にとっては、こうすることが考え得る最善の方法だった。このまま寺にいれば、いずれは否応なく藩主の許へ連れてゆかれてしまう。仮に拒み続ければ、光円の身までが危うくなるかもしれない。
 むろん、出てゆくことを光円に告げられるものではない。だが、この勘の良い師匠は、薄々、吟の決意を見抜いているようにも見えた。昨日の夕刻、いつものように向かい合って夕餉の膳についた時、光円がふと箸を動かす手を止め、吟を見た。
―どんなときでも、迷うことなく進みなさい。迷いは人の心を弱くする。だから、自分の選んだ道を迷うことなくお行きなさい。
 その言葉は、吟の覚悟をすべて承知しているようにも聞こえた。吟が愕いて光円を見つめていると、光円は淡く微笑み、再び薄い粥をすすり出した。薄い粥と具など何も入ってはいない味噌汁、そんな慎ましい食事もこれで最後かと思えば、思わず涙が溢れそうになった吟であった。
 すべてを判っていながら、知らぬふりをして逃してくれようとする光円に心から感謝しながら、吟は静かに部屋の障子を閉め、廊下づたいに庭に出た。山門へゆく途中、片隅の夢見桜の前で立ち止まった。宵闇の中で樹の姿が浮かび上がっている。細い月に照らされて、樹の影が地面に落ちていた。
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