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気の毒な人
第1章 気の毒な人
 長い回想から現実に戻り、私は顔を上げ、ふと目の前にある洗面所の鏡を見つめた。


 鏡の中には高校生になった自分の顔が暗がりに映っていた。
 気の毒な人がそうしろと言うから伸ばしている黒い髪と、気の毒な人と同じような細い瞼。それから、大きい口。

 
 汚れた手を洗う水洗を捻って止め、蒸し暑い廊下へ足を進めた。


 そういえば。
 姉も、若い頃は髪を伸ばしていたはずだ。
 父親の趣味で、母も髪が長い。



 なんて、思い出さなくてもいいことを思い出しながら。



 ポケットの中のケータイが震える。
 それは気の毒な人が知ればまた飲尿させられそうな相手からの着信だった。
 胸が躍らないのは私がトチ狂っているからだろう。

 


 そういえば、さっき言い忘れたことがあった。
 本当は2人きりになってすぐ切り出さなければならなかったのに、快楽を前にして言うのを忘れていたのだ。


 全身に焦げ付いた自己実現という快楽を前に。
 この男の心を支配しているという快楽を、前に。
 うん、やはり私はトチ狂っているのだ。
 

 にぎやかな声が客間から聞こえてくる。
 障子から漏れるエアコンの冷気が脚を冷やす。


 
 ――長男が生きとったら、やっぱりほかと同じ、教師になっとったんですかねぇ。



 さっき、気の毒な人はなんで、と言ったけれど。
 私は最近思うのだ。
 気の毒な人が出来のいい兄だと評した、ウン年前に亡くなった・・・いや、亡くなることを選んだ兄も、なにかしら、やはり、私たちのようにどこかトチ狂っていたのだ。

 だって私にまるで関心の・・・いいや。
 亡くなった兄以外の子供にはまるで関心のなかった母親は、骨になった兄のかけらを食べたのだ。

 どうして兄は、自分を殺したのだろう。
 “気の毒な人”に、自分はなりたくなかったのだろうか。

 疑問が巡る。
 答えのない、知りたくもない疑問が。
 ぐるぐると。


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