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気の毒な人
第1章 気の毒な人
 確かに、気の毒な人が言ったように、私たちは最初からどこかトチ狂っていたのだろう。



 いいや、はじめにトチ狂ったのはわたしのほうだったのだろうか。


 思い出すのは、あの視線。
 焼き付いて離れず、結果、焦がされてしまった、あの、股間に張り付いた視線。



 1階の洗面所で全身に浮かんだ汗を拭いながら、記憶の中の視線を思い起こす。
 


 あれは、風呂場。
 浴槽の中。
 蛇口から一直線に流れ出るお湯。
 器用に開脚して、幼い私は股間にそれを当てていた。
 1人で入浴するくらいだから、恐らく幼稚園生くらいだろうか。
 
 理由など分からなかった。
 単純に、そうすると気持ちがいい、などというバカみたいな理由で、入浴のたびにその行為を繰り返していた。

 気の毒な人はたまにうちに来るけれど、普段は別に暮らしていた。
 兄だという概念は理解していたけれど、実感としては「知らないおじさん」だった。
 事実、気の毒な人は当時大学生には見えないほど老けていたし、というより大学生に見られたいという概念自体彼の中に存在しなかったのかもしれない。


 あれは確か、夏だったはずだ。
 大学の夏はオフシーズン。
 休暇中、実家である我が家に帰省していたのかも知れない。
 けれども気の毒な人と風呂を共にするなんて考えもしなかった。
 言うまでもなく、それほどの仲でなかったからだ。


 それに何より幼稚園生の娘を持つわりに両親は年を食っていたし、多少長湯をしたところで私の面倒を見ずに済むのだから、子供嫌いの母親が風呂場を覗きに来たためしは一度もなかった。



 だから私は安心しきっていた。
 安心しきって股間に当たり続けるお湯の快感に浸っていた。
 その時、風呂場のドアがガチャンと音を立てた。
 はっとして顔を上げると、湯気の向こうの戸口に気の毒な人が立っていた。

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