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気の毒な人
第1章 気の毒な人
 私は急いで股を閉じた。
 猛烈に混乱した。
 
 なぜ気の毒な人が、私の入浴中にも関わらず突然入ってくるのか意味が分からなかった。

 それよりなにより恥ずかしくてたまらず、死んでしまいたいくらいだった。
 オナニーという呼称すら知らなかったけれど、恥ずかしい行為であることは本能として自覚していた。
 だからこそ、よりによって気の毒な人にそれを目撃されたショックは大きかった。

 気の毒な人は湯船の中で三角座りをしながら俯く私をじっと見つめている様子だった。
 意図的に刺激し続けた股間はじんじん痺れて熱かった。 


「なんしとん」

 
 気の毒な人は風呂イスに腰掛けながら呆れた声で言った。
 広い丸い背中が私の方を向いていた。

 気の毒な人は幼い私にとって、ゴリラのように見えた。
 幼い頃から励んでいた競技上、大学では補欠だったとはいえ全身に筋肉がたっぷりついた身体で、背も高かった。
 毛深くはないけれど、シルエットがゴリラそのものだったのだ。
 危害を加えられたことはなかったけれど、見た目が怖いとすら思っていた。
 そんなゴリラは浴槽の中で黙り続ける私を振り向くと、低い声で言った。


「アホやろ」


 気の毒な人は笑いもせず、半泣きの私を横目に石鹸ひとつで全身を洗うと、サッサと風呂場から出て行ってしまった。


 恥ずかしさの涙がワッと溢れたのはそのあとだった。


 私は風呂から上がると、雑に身体をバスタオルで拭い、水滴のついた身体にシャツとパンツだけを身に付け、台所で何かしら料理をしていた母親にうしろから抱きついた。


 母親はさぞかし面倒くさそうに泣いている私の顔を覗き込み「どしたん」と尋ねた。
 けれども恥ずかしくて何も言えず、ただ泣いた。
 母親は私を尻のあたりにくっつけ引きずりながら場所を移動し、数珠暖簾から居間のほうへ顔を出すと、ソファの上にパンツ一丁で寝そべり、アイスか何かを食べていた気の毒な人に声をかけた。

「あんた、なんかしたん?」

 緑色の羽根した扇風機が湿った生暖かい風を室内に撒き散らしていた。
 気の毒な人は「知らん」とだけ答え、私の方を見ようともしなかった。


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