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陽炎 ー第二夜ー
第1章 女郎蜘蛛
廊下の向こうは中庭になっており、月明かりのせいで人影はやたらに大きく映る。

おいでなすったか…蜘蛛に喰らわれる羽虫の気分だった。

「兵衛殿…起きていらっしゃいますか…?」

控えめな声とともに、スッと障子が開く。

眠りこけていてもそのまま入ってきたのだろう。

布団の上に半身を起こした兵衛に、ウメはニコリと微笑みかける。
夜中だと言うのに、くっきりと引いた血赤の紅が目についた。

ウメは、髪を解き、単衣の寝間着姿のまま、部屋に入ってくる。

「斯様な刻限に、如何いたした?」

兵衛は顔色ひとつ変えずに聞いた。

「眠れませんの…」

ウメは兵衛の間近まで寄り、そっと着物に指を這わす。

「独り寝の夜にもようやく慣れて来ましたのに…主人に生き写しの兵衛殿をお見かけしてから、寝付けずに居ります…はしたない女とお思いでしょう?…でも…淋しくて…」

片手は首に回し、もう片手は着物の合わせから中に入って直に肩を撫でてくる。

くるくると円を描くように指先を滑らせ、男を誘う。
芬々たる白粉と紅の香り。

妖艶なまでの美しさに、大抵の男なら参るであろう。

だが、兵衛はぶれない。

元来、兵衛は色事に執着がない。

鷺には度々、『枯れたジジィ』と揶揄されたものだが、別に枯れているわけでもない。求められれば応えるくらいのことはできる。

ただ、生来の疑り深さの為か、女の言動の裏を詮索してしまう。

詮索すると気持ちも冷め、なかなか甘やかな雰囲気には浸れぬものだ。

感情の昂りに身を委ねれば良いようなものなのだろうが、こればかりは性分なのか、どうにもならぬ。
我ながら損な性分だとも思う。

それでも、若い頃は、いずれまことを捧げてくれる裏のない女子とまみえようか、と淡い期待を抱いてもいた。
だが、萎えた脚で女漁りをする気にもなれず、そうこうするうちに不惑も越し、そんな期待も消え失せた。

それよりも、好きな酒を呑んでいるほうがはるかに楽しかった。

そんな男だから、ウメの誘惑にうんざりはしても興奮することはなかった。

だが機を得るには、全て受け入れた方が良さそうだ。と、いうことは、このまま喰われるということか…

あまり気は進まなかったが、流れに棹をささず、流されることを意識する。
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