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口琴
第5章 蒼い果実
風呂から上がると布団は片付けられ、座敷にはお膳が置かれていた。

もう正午を過ぎていたので、朝食と言うより遅めの昼食と言うべきだろう。

高級な輪島塗のお膳には、豪勢な和食が彩りも豊かに盛り付けられている。

蕾は、夕べから水しか口にしていなかったが、食欲は依然として湧かない。

「…私…食べたくない…。帰る!」

いつの間にかクリーニングされた制服や下着が、藤の籠に畳まれているのを見つけ、慌てて着替え始めた。

「どうか、少しだけでも召し上がって下さいませ。そうしなければ、私が叱られてしまいます」

彩乃が懇願するように頭を下げるので、蕾は渋々お膳の前に座り、汁物に口をつけた。

不味いとは思わなかったが、母の味噌汁の方が断然美味だと思いながら、二口ほど啜った。

すると…

「失礼致します。蕾さん、お食事がお済みになりましたら、お車をご用意致しますので…。」

戸口の方から、低音の落ち着いた声が…。

蕾はすぐに、北川だと分かった。

「帰れるの?!」

ガタンッ!!

お膳を揺らす勢いで、立ち上がった。

「蕾さん、お食事がまだ…」

「帰るんだってば!」

彩乃は、蕾の強い口調に怯み、正座したまま後退りすると、慌てて頭を下げた。

「ゴホンッ…それでは、本館の玄関アプローチでお待ちしております」

北川は咳払いを一つして、そう言い残すと、そのまま足音が遠ざかって行った。

「あ、待って」

蕾は、北川において行かれまいと、慌てて戸を開けて飛び出そうとした。

「あの…お許し下さいませ。…これからは…粗相の無いよう、確と心掛けますので…」

彩乃は正座したまま、か細い声で詫び、深々とお辞儀をした。

使用人達にとって"現在"の蕾は、中條の大切な所有物で、"正室"とも言うべき特別な存在。粗相は厳禁と教育されている。

「…彩乃さん…ありがとう…。でも私、もうここへは来ないの。私…あのおじちゃん大っ嫌い!でも、昨日だけは我慢したの。だって…ママやあずちゃんの為だもん…。あ、でも、彩乃さんはとっても優しかったよ?ありがとう」

蕾は親切にしてくれた彩乃に礼を言い、頭を下げる彩乃の美しい横顔を見た。

気のせいか、泣き黒子が少しだけ濡れて光ったような気がした。

……?……

蕾は、そんな彩乃が気になったが、北川を見失ってはと思い、その場を後にした。
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