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ブルジョアの愛人
第1章 キャンディキャンディ
莉菜の恋人は、文庫本を膝に置いた革の鞄に仕舞い、鞄を後部座席にやると再びエンジンをかけた。
「僕も遅くなってごめん」
恋人は、包み込むような柔らかい声を莉菜に掛ける。莉菜はううん、と首を横に振った。
「樹里が寝なくて」
樹里――莉菜にとって、今最も出して欲しくない名前だ。言い訳じみたその言葉からも、娘を心から愛している彼の気持ちが伝わってくる。
「大丈夫だよ」
莉菜は胸の痛みを堪え、無理に口角を上げた。しかしその表情で彼の方を向くことはできなかった。
「今日は浩晃(ひろあき)さんにいっぱい可愛がってもらうもん」
莉菜はえへへっ、と無邪気に笑う。彼――浩晃は、ハンドルを握る手を一瞬離しそうになった。この手で莉菜に心の底から笑って欲しいと思った。
「行こうか」
浩晃は前を向き、アクセルを踏んだ。唸るような排気音を響かせ、スカイラインは闇に包まれた初夏の住宅街を走り出した。