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道化師は啼かない
第4章 錯覚と残り香
手を広げて窓に翳す。
朝の陽光がカーテンのない部屋を焼きつくさんばかりに差し込む。
時計は六時を示している。
冬が明けた。
段々早く目覚める太陽は位置を変えて。
「ニャー」
ヘレンが足元にすり寄る。
ご飯を催促しているのだろうか。
ハルは微笑んで餌箱に向かう。
ザラザラとキャットフードを入れて、また出窓に近づく。
熱い。
空気は冷えているのに。
汗の滲んだ髪を掻き上げる。
脳裏に茫然と立ち尽くす少女が浮かんだ。
時計台を挟んで向こう側。
理由を訴える眼。
肩までのブラウンの髪は姉のそれとは似ても似つかない。
なのに、彼女の中に姉の面影を見た。
八年前からの追いかけっこ。
「鬼さんこちら。手の鳴る方へ」
街を見下ろして口ずさむ。
前は二年前だった。
すれ違う程度だったが、確かに彼女だった。
世間を知らない生き生きとした表情と足取りで、前だけを向いて歩いていた。
手をついて、出窓に座る。
頭を押し付けるとひんやりとガラスに熱を奪われる。
紅くなったシャツを見下ろして、深呼吸を繰り返す。
シャワーを浴びなくては。
仮眠をとらなくては。
食事をしなくては。
依頼を確かめなくては。
報告の返信を見なくては。
すべての義務が遠ざかる。
「鬼さんこちら……」
トントン。
指で腿を叩く。
今だけは。
唇が動く。
「手の鳴る方へ……」
今だけは、休みたい。
ヘレンがカリカリと窓を引っ掻く。
緩やかに尻尾を振りながら。
「お前は本当に空気を読まないね」
苦笑してハルは窓を開けた。
爽やかな風が吹き込んでくる中、猫は一瞬だけ主人を見上げて軽々と身を投げ出した。
その後姿を見届けて、重い体を起こす。
積み重なった義務を一つずつ片付けるために。
服を脱いで、浴室に踏み入れる。
シャワーを壁に固定して、水を浴びた。
朝まで街を歩いた体が悲鳴を上げている。
だから、ただ浴槽の縁にもたれて水に打たれた。
流れていく。
残像だけを残して。
昨日が。