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道化師は啼かない
第4章 錯覚と残り香
 片手で払い落とし、金属音が響く。
「うなじに目でもあるの?」
「そうです」
「言うわね」
 相変わらず交差しない目線も慣れたもの。
 同じ方向を見て話す二人は、傍から見れば会話が成立しているほうが不思議かもしれない。
「今更だけどさ、なんでアリスなの?」
 喉を上下させてブラッドオレンジを飲み干す。
 氷だけのグラスを掲げる。
「なんででしょう」
「不思議の国のアリス?」
「なんでそう思うんですか」
「そうしか思えないけど」
「なんでアリスなんですか……」
「あたしが訊いてるんだけど」
 ギシ。
 テーブルに体重を預けてハルが振り返る。
 本来の姿なのに、胡桃は眼を合わせるのが嫌でふいと顔を逸らす。
 この紫の瞳をまともに見れるのは同業者だけだろう、そう思いながら。
 ハルはその気持ちを知った上で彼女を見つめて微笑んだ。
「蕗はシヴァって呼んでるんですよ」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
「単身で仕事始めて三年ですよ」
「その三年一度も顔を見てないもの」
 灰を落とそうとして、床に落ちた灰皿を睨む。
 厭そうにカウンターから出て拾い上げ、短くなった煙草を潰す。
「今度呼んでみますか」
「本当にやめて」
「僕もやめた方が良いと思いますけど」
「じゃあ言わないで」
 椅子を引きずって持ってきて、彼女は疲れ切ったようにカウンターに突っ伏す。
 帰れという合図。
 でも、ハルはそんな胡桃を眺める。
「あ、思い出した」
「質問ですか」
 悔しげに顔を上げる。
「どうせ答えてくれないだろうけどさ……誰に会ったの?」
 カランカラン。
 二人が同時に入り口に目を向ける。
 胡桃は気づいていない。
 ハルと過ごすうちに彼並みの反射神経を持ってしまったことを。
「あ。まだ開いてませんでしたか。人影が見えたので」
「いいええ。特別にどうぞ。ご注文は?」
 灰色のグラデーションのTシャツに淡い紺色のジーンズ。
 財布だけをポケットに入れた身軽な格好。
 染めたばかりであろう金髪に派手なチェーンネックレス。
 ペタペタとスリッパで階段を下りてくる。
「Aセットとクリームソーダ下さい」
 ハルをちらっと見てからカウンターに座る。
 胡桃も彼を見るが、明らかに「帰らないの?」と訴えている。
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