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道化師は啼かない
第4章 錯覚と残り香

 ああ。
 憂鬱な一日だ。
 すでに疲労が限界。
 早く帰りたい。
 ハルは苦笑しながらメガネを掛けた。
「行くよ、ハル」
「はい」
「待てって!」
 直輝が叫ぶ。
「蕗の居場所は?」
「駅の東口にある五階建てのビルの隣の倉庫だ」
 眼を丸くする。
「はあ? なんで……」
「迎えは必要ないですかね」
「鍵は壊しておいた」
「なら大丈夫ですね」
 直輝が駆け寄る。
 理解できないように。
 ハルと男の間に割り入って。
「あんた……誰だよ」
 瞬きせずに。
 髪を逆立たせて。
 ハルが目を細めて拳を握ると、男が察して首を振った。
 それに気づいて下がる。
 全く、この人には逆らえない。
「今日の準備は済んだのか」
「これからです」
「今日のアリスは奥手だから、楽しめるだろうな」
「そうですかね」
「そうだろうさ」
 ええ。
 いつもそう言う。
 ハルは一歩下がると、素早く路地から出た。
 直輝が手を伸ばしてきたが、間に合うわけがない。
 すぐに踵を返して雑踏に紛れる。
 後ろで叫び声がしたが、止まらずに歩いた。
「こういうのは逃げるみたいで厭なんですけどね」
 不満は誰にも届かなかった。
 たぶん、あの男以外には。

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