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波の音が聞こえる場所で
第5章 湯口の上の狸に独り言をぶちかましてやる
 体を洗い終わり、僕は湯舟に戻った。僕にはお風呂をこのまま出るなんて選択肢はない。湯の中に体を沈めていく。風呂の底に尻をつき、頭を湯舟の淵にもたれかけさせて窓の向こうに見える小さな庭を見た。
 冬に備えて小さな木々には冬囲いの縄が締められていた。人間がそんなことをしなくても、草木は勝手に冬と戦う準備をする。でも山水旅館の御主人は、この小さな空間の隅々まで手入れを決して怠らない。ご主人や旅館スタッフの皆さんの愛がこの小さな庭に注ぎ込まれているのだ。 
 それから庭の右側には灯篭があって、多分夜になるとそこに灯りが灯るのだろう。夜の色の中にぽつんと輝く光を見たかったが、そんな僕の願いは叶えられることはない。
 ふと病床六尺という言葉が僕の頭に浮かんだ。六尺は一間、おおよそ百八十㎝の長さを表す。正岡子規は六尺ですら自分には広すぎると言った。百八十㎝って僕の身長よりも十㎝くらい短い。 
 晩年、正岡子規はその六尺の病床から庭を見ていたのだそうだ。起き上がることすら儘ならない子規にとって、子規の目に映る庭は大宇宙だったに違いない。六尺の中から見る世界であっても想像は無限だ。頭の中は無数の言葉で溢れ、心の中は多くの色で彩られる。
 まだ咲かぬ花に思いを馳せ、散りゆく花に心を寄せる。時間は止まることなく前に前に進んでいくが、その歩みは決して過去に残されたものとは同じにならない。
 病床六尺に文学者正岡子規の絶望はなかった。それどころか狭い空間であっても、子規の心は縦横無尽に動いて動いて動き回ったのだ。何だかめちゃくちゃかっこいい(正岡子規ファンの方々ごめんなさい)。
 それに比べて……。いやいや比べること自体間違っている。それは子規が偉大な俳人歌人であるからではない。それは僕の逃走の動機にある。動機と言うか、逃走そのもの?
 逃走と対峙できなくなると、僕はそれを簡単に冒険に変換してしまう。僕はどうしようもないくらい弱い人間だ。誰が見たって僕の行動は冒険ではなく逃走だ。僕は逃げている。でも……言い訳だと誰かから非難されても構わない。僕は僕の逃走を冒険に変えたいのだ。じゃあ、それっていつ? と言われても僕自身わからない。だから僕は冒険に向かって突き進む。そのためにも今見ている山水旅館の庭を目に焼き付ける。春夏秋冬の庭を心の中で思い描く。ちょっとだけ子規を真似して。
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