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石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
第10章 第三話・壱
 飯屋でいちばん忙しいのは、昼飯刻、更に夕飯刻から店を畳むまでの間に限られる。殊に昼下がり、昼飯を終えた客が帰った後は夕刻まで、店はいっときの静けさに包まれる。
 花ふくの主人岩次の腕は確かで、見た目も味もそんじょそこらの高級料亭に引けも取らない。それもそのはずで、岩次はかつて江戸でも名の知れた料亭で板前をしていた時代があった。兄弟子と女房のおしまを争い、店を辞めざるを得ない仕儀になってしまった。
 客の大半は人足や職人、日傭取りなどだが、単なる飯屋の親父にしておくのは惜しいと、わざわざ大店の旦那が通ってくるほどなのだ。
 今は一日でもその最も暇な時間帯で、お民は花ふくの前で、二人の子どもたちを遊ばせている最中であった。お民は背に一人を負い、一人を眼前で遊ばせていた。お民の眼前で歓声を上げて走り回っている子が上の龍之助(たつのすけ)だ。辰年の辰の刻に生まれたので、源治がこの名を付けた。
 龍之助が蝶を見つけた。白い小さな蝶がふわふわと羽根を動かして眼の前をよぎってゆく。
 龍之助ははしゃぎ声を上げたかと思うと、更に向こうへと勇んで駆けていった。
「龍之助、そんなに急いで走ったら、転んじまうよ」
 お民が声をかけるが、幼子にはいっかな耳に入る風もなく、一心に駆けてゆく。
 ふいに龍之助が脚許の小石に躓いて転ぶ。
 うわあーと派手な泣き声が辺りに響き渡った。
「ほらほら、言わんこっちゃない」
 お民は笑いながら龍之助を追いかけた。
 しゃがみ込み、龍之助と同じ眼先の高さになって顔を覗き込む。
「ね、だから、おっかちゃんが言っただろ。そんなに急いだら転んじまうだろって」
 お民は微笑むと、懐から手ぬぐいを出し、龍之助の小さな脚にできた擦り傷を拭いてやった。左の膝小僧をすりむいたらしく、薄く血が滲んでいるが、その他はたいした怪我もしていないようだ。
「さっ、良い子にして泣き止んだら、お菓子をあげるから、もう泣くのはお止し」
 宥めている中に、龍之助は少しずつ泣き止んだ。
 背中の松之助は眠っているらしく、うんともすんとも言わない。
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