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石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
第10章 第三話・壱
「旦那さん、旦那さん?」
お民は狂ったように岩次の名を呼び続ける。こんな状態になった岩次を到底、一人にしておけるものではない。
「お民ちゃん、儂のことは良い。大丈夫だ、龍坊を、龍坊を取り戻してこねえと」
岩次がうっすらと眼を開けて訴えた。
お民は迷った末、駆け出した。
既に水戸部はむろん、店の内に雪崩れ込んできた侍たちは皆、かき消すようにいなくなっている。龍之助を抱いた男もやはり、どこにもいない。
お民は夢中で走った。
途中で転び、草履の鼻緒が切れると、やむを得ず片方は裸足のまま走った。髪を振り乱し、片方裸足で町の往来を走る女を、行き交う人々が唖然として見つめている。
恐らく今のお民は狂女のように見えているだろう。
それでも構いはしない。が、ふいに背中で烈しい泣き声が聞こえてきて、お民は現実に引き戻された。
どうやら松之助が午睡から目覚めたようだ。あれだけの騒ぎがあったにも拘わらずよくぞ起きなかったものだと思うが、この松之助は大人しい割に、このような肝の据わったところがあった。
やんちゃな癖に怖がりの龍之助とは正反対の性格だ。
お民はその場に立ち止まった。
よしよしと、背中の松之助を揺すり上げる。
松之助も兄の身に起きた異変を察知しているのか、泣き方が尋常ではなかった。
いつしか、お民は鳴戸屋という海産物問屋の前に立っていた。ここは錚々たる大店がひしめく町人町の中でもとりわけ名の知れたお店(たな)ばかりが軒を連ねる大通りで、人の行き来も多い。
考えてみれば、闇雲に追いかけてきたけれど、水戸部たちがどこに消えたのかは判らないのだ。常識的に考えれば、町人町とは真反対の和泉橋町の方を目指したはずだ。町人町を抜けると、和泉橋という小さな橋一つ隔てた向こう側にひろがる閑静な武家屋敷町、その一角に石澤嘉門の屋敷もある。
お民は自嘲気味に笑った。
鳴戸屋は構えも大きく、その庭も豪勢なものだという。何しろ、四季折々の花が植わっていて、屋敷にいながらにして花見や紅葉狩りができると云われているほどなのだ。
ふいに涼しい風が吹き抜け、得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐった。
お民は狂ったように岩次の名を呼び続ける。こんな状態になった岩次を到底、一人にしておけるものではない。
「お民ちゃん、儂のことは良い。大丈夫だ、龍坊を、龍坊を取り戻してこねえと」
岩次がうっすらと眼を開けて訴えた。
お民は迷った末、駆け出した。
既に水戸部はむろん、店の内に雪崩れ込んできた侍たちは皆、かき消すようにいなくなっている。龍之助を抱いた男もやはり、どこにもいない。
お民は夢中で走った。
途中で転び、草履の鼻緒が切れると、やむを得ず片方は裸足のまま走った。髪を振り乱し、片方裸足で町の往来を走る女を、行き交う人々が唖然として見つめている。
恐らく今のお民は狂女のように見えているだろう。
それでも構いはしない。が、ふいに背中で烈しい泣き声が聞こえてきて、お民は現実に引き戻された。
どうやら松之助が午睡から目覚めたようだ。あれだけの騒ぎがあったにも拘わらずよくぞ起きなかったものだと思うが、この松之助は大人しい割に、このような肝の据わったところがあった。
やんちゃな癖に怖がりの龍之助とは正反対の性格だ。
お民はその場に立ち止まった。
よしよしと、背中の松之助を揺すり上げる。
松之助も兄の身に起きた異変を察知しているのか、泣き方が尋常ではなかった。
いつしか、お民は鳴戸屋という海産物問屋の前に立っていた。ここは錚々たる大店がひしめく町人町の中でもとりわけ名の知れたお店(たな)ばかりが軒を連ねる大通りで、人の行き来も多い。
考えてみれば、闇雲に追いかけてきたけれど、水戸部たちがどこに消えたのかは判らないのだ。常識的に考えれば、町人町とは真反対の和泉橋町の方を目指したはずだ。町人町を抜けると、和泉橋という小さな橋一つ隔てた向こう側にひろがる閑静な武家屋敷町、その一角に石澤嘉門の屋敷もある。
お民は自嘲気味に笑った。
鳴戸屋は構えも大きく、その庭も豪勢なものだという。何しろ、四季折々の花が植わっていて、屋敷にいながらにして花見や紅葉狩りができると云われているほどなのだ。
ふいに涼しい風が吹き抜け、得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐった。