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自由という欠落
第6章 もつれていく
涙が心陽の化粧を崩した。
心陽はホールのバルコニーの柱の影で、今しがた伝った一筋を、ハンドタオルに押さえた。
明日は学祭だ。
合唱カフェの教室を装飾して、仕込める分のメニューは仕込んだ。あとは、部員らの稽古を見学しながら、菓子をつまんで歓談していただけの時間だ。
日も暮れて大半の顔触れが帰っていった中、心陽が帰路に着き損ねたのは、久しく腐れ縁の香菜と過ごす時間が楽しかった所以かも知れない。
生来、心陽は一箇所にこもっていられる性分ではない。外の空気が恋しくなって、中庭で適当なSNSをチェックして引き返してきたところで、偶然、演劇部の稽古が目に留まったのだ。
ステージ発表を活動の軸にしている団体は、ところ構わず稽古する。学生生活を送っていれば、 ふとこうしたシーンに出くわすのは茶飯事だが、心陽の免疫は存外に低かったらしい。
一方的に眺めていた稽古現場で鼻の奥がつんとしようとは、今日まで夢にも思わなかった。
「…………」
主人公のオセローがデズデモーナを殺害して、彼自身も後を追う。
舞台作品として著名な『オセロー』の、あまりに有名なラストシーンだった。
「心陽、ここだったんだ」
聞き親しんだ声がして、肩が跳ねた。
耳の奥が僅かに顫える余韻を振り切るようにして、心陽が暗澹とした蜜色に視界を巡らせると、教室で別れた友人がいた。薄手のニットに短いスカート、秋色の装いをした友人は、さらさらの栗色のボブの髪を揺らして、心陽に白い歯を見せた。
「香菜」
「お手洗い行ったら、心陽っぽい子がいたから。演劇部?」
「うん」
「……どうしたの?元気ないね」
「あ、うん、まぁ」
「あの二人──…「香菜っ」
トーンの上がっていく香菜の声を、遮った。
盗み見ていたわけではない。それでも、心陽は隠れていたかった。