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自由という欠落
第1章 がらんどうな方程式
「画材も、Yちゃんと同じ」
筆をもてあそぶよりずっと優しく、岸田はYの硬く黒い髪に指を通して遊んでいた。
「決まった配合に従えば、決まった色になるだけ。数学なの。それだと絵にならないから、私が心を描き出すの」
「何が言いたいの」
「Yちゃんは、あの子と私の前だと、今でも正真のYちゃんだなって」
それだけで、私は十分、救われてる。
Yはいたずらな恋人の片手を持ち上げて、唇で触れた。その指にまとわっていた毛先が乱れたのは気に留めない。
岸田は孤独だ。過不及なく愛らしく、明るい身性、何より才能に恵まれている。あの職員会議で啖呵を切った翌日も、教員らは彼女を攻撃しなかった。そればかりか表向きYへの出様も柔和になった。生に関して不満も忿怒もないだろうに、彼女は沸々と彼女の世界で、静寂した咆哮を上げている。
教師として社会に出た時、彼女は道に迷ったという。そこに理想的な同業者がいた。彼女のインスピレーションを補翼する女が。
岸田の直感がYにとって幸運だったのか否か、判らない。少なくとも初めての恋愛を経験した。何も握らず、もっぱら何かが抜け落ちていくだけの手のひらに、初めて感触を得た。
暮橋の愛した、暮橋に愛された少女。Yが彼女を最後に見たのは、彼女の最愛の上級生が消えた二年後の春だ。一年生だった天衣無縫の天使は、ぞっとするほど美しい見目になっていた。ぞっとするほどの空虚を抱えて。
おそらくYとは別種の苦艱に苛まれたあの少女は、卒業式の列席で、本当に生きていたのだろうか。
「岸田」
夜間の眠気がYを拘引しようとしていた。
Yは岸田の手を握って、いつかの少女の指先を想う。
「今度のコンクール、貴女のテーマは?」
岸田を包む雰囲気も、うつらうつらしている。それでも彼女は、敬愛する女のために意識を奮う。
「縄だよ、Yちゃん」
第1章 がらんどうな方程式〈完〉