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自由という欠落
第2章 囚われの小鳥
歴史や文学における異性装を考察すると、そこには女の男に対する、現実味を帯びない理想像が浮き上がる。
どこの国にも女が男の惰弱に痺れを切らせる場面があって、打開が見込めなくなった時、彼女らはそれまで立ててやっていた者になり代わろうと思いつく。ある時代の変わり目に立った高貴な生まれの女達が、端的な例だ。彼女らは先代や配偶者らの志を継承したのだと言えば聞こえは良いが、正味、男達の尻拭いのために剣をとった。収集つかなくなった戦に終止符を打った女王もいれば、配偶者が崩壊させた政治を恢復させた女皇もいる。
彼女達は、男達の見てくれを倣ったのではない。
装飾性に特化したドレスや靴、もはや女を羈束するためのコルセットを身につけていたのでは、戦えなかった。
着衣は、時として当人の精神に差し響く。
女達は男に義務づけられた姿に化ける儀式を通して、彼らの強靭な性質に、生来の徳を嵩上げしたのだ。
そういった根拠で男装とやらを頼みとしたなら、男の衣服は本当に必要だったのか。
給仕の姿をとれば給仕の振る舞いが身につく。
同じ理論で男の衣服に袖を通した女達が実存したなら、彼女らは、彼女ら自身が痺れを切らせた惰弱に目を向けなかったことになる。一度見損なった男の格好をすれば、次は自身にまで失望せねばならないリスクも伴うのではないか。
今しがたの講義で蓄積した腑に落ちないものを振り払うような思いで、まひるは教材を重ねていた。
そう言えば、春休みにのはなに連れられていった有名な歌劇団の舞台も、役者の半分が男装していた。…………