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自由という欠落
第5章 始まりの同義語は多分
彼女は、陽子の受け持っていたクラスの一学年下の生徒で、陽子が顧問をしていた美化委員に属していた。
中学生の子供と言えば、男女という概ね二種類の性がようやっと二分化していく頃で、まして十二、三歳の少女らに、色気など身につく由もない。
そうした少女らの群れにいて、彼女は異質な存在だった。
際立って艶やかな黒髪に、その毛先が触れるウエストは制服に身を固めていても折れそうに細く締まっているのが分かった。濡れた瞳はあまねく俗欲、憎悪、偏見を知らない透明感を湛えて、通った鼻梁やほんのり紅潮した頰を飾る宝石だった。声は、甘く澄んだ蜜を秘めた花のささめき。
その若干十三歳の少女を相手に、陽子は恋人を持つ身でありながら、得体の知れない女の欲望を燃やしていたのだ。
「会いたいんです。会って、謝りたい。助けられなくてごめん、って」
「先生のせいじゃありません。でも、他に話せる人もいなくて……」
「有り難うって、言いたかったです。大切にしてくれて有り難うって」
陽子と彼女は、赤の他人も同然だった。教師と生徒という関係はかたちばかりで、さればこそ彼女と交したなけなしの言葉は、陽子の記憶の容量に収まりきった。
彼女は、陽子の過失を否定する、数少ない人物だった。
陽子のクラスには、彼女と交際していた生徒がいた。異性間の交際を禁じた校内で、優等生の彼女らによる同性同士の愛に対して、校則に干渉出来る術はなかった。もっとも彼女は優等生だった所以、陽子の前では、件の上級生を常に先輩と呼んでいた。
どうして先輩じゃなければいけなかったの。
どうして私を置いて行ったの。
美しい声を淡々と愛惜に変える彼女は、口先ほど自責の念も見られなかった。不幸がある水準を超えると、人間は、感情が削がれていくという。慕った上級生と決別した彼女も、あの頃、胸の内にあるべきものを手放したあとだったのか。世界中に見放されたも同然だった陽子同様、彼女は彼女の恋人のいた時間の中に置き去られてしまっていたのか。
暮橋紬。
そうした名前の生徒が、初夏には陽子のクラスにいた。だが、夏休みを控える頃、暮橋という名の生徒はいなかった。
ゴールデンウィークの明けた某日、暮橋紬は手首を切った。
それが、陽子と彼女に残る、暮橋という生徒に関する最後の記憶だ。