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自由という欠落
第5章 始まりの同義語は多分
のはなは、目を伏せたまま相槌を打った。
他者への懐疑を知らないで生きてきたような、清らかで吸い込まれる塩梅の、潤沢の双眸。まひるの端整とれた顔を飾る目は、のはなの胸を逸らせすぎる。
ロリィタスタイルだと立ち稽古に不自由があるからと話していた、だからと言って白と群青の皇子スタイルで、さっきまでのはなの相手役を務めていた彼女の姿は、ともすれば本当に異国を描いた舞台の中の住人だ。身を焦がすような想いでヒロインを愛して、観客らに至高の美を浴びせるイデア。
のはなが憧れるには眩い。
手を伸ばしたがるには、のはなに与えられた不羈は乏しい。
「ごめんなさい、言って出てくれば良かったわね。少し疲れてしまって」
「大丈夫?帰──…」
「帰らなくちゃいけないほどじゃないの。緊張しちゃったのかも、今更だけど」
「え、……。あ、……そっか」
緊張とは、つまるところ意識に紐づく疾患だ。のはなは稽古で仮初めのパートナーに愛を注がれる架空に酔って、親切で気さくな上級生、打ち解けやすい同級生らの優しさに触れて、現実と現実の狭間に生じる齟齬に耐えかねた。
格好が可愛いだの、お嬢様だの、のはなのうわべだけを知る人間は、そうした手放しの評価をする。彼らはのはなの素顔を知っても、その目を変えないものなのか。こんな風に、友達と呼べる少女は、のはなを迎えに来てくれるか。
「ま、分かる気はするな。私も未だに台詞飛びそうになるし」
まひるがのはなに距離を詰めた。サイドテールのピンクの髪が、レースのふんだんにあしらわれたネイビーのブラウスに流れて、天の川のように煌びやかに揺れる。
「おまけに相手役が可愛くて、普通に緊張しちゃうし。意味は違っても、お互い緊張していたら、良い感じに新婚さんみたいな演技が出来るかもね」
どれだけ直射日光を浴びても真珠の潤沢を失わなかろうまひるの手が、のはなの片手を掬い上げた。心陽とは違う、心陽と同じ少女の指だ。心陽とは違うのに、のはなの胸が、また一秒、音を速める。
デズデモーナは、のはなではない。それでいて演者は演じる対象を、多かれ少なかれ内部に住まわせることがある。まひる演じるオセローに愛される、幸福な存在。彼女を演じるのはなは、まひるが付きっきりで友人でいてくれる幸福な人間だ。