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それを、口にすれば
第1章 プロローグ
よく晴れた水曜日の午後。
自分のために焼いたシナモンケーキをオーブンから取り出すと、リビングにはほんのり甘く、スパイシーな香りが広がった。

今日は優雨(ゆう)の二十八回目の誕生日だ。
誕生日は、小さな頃から母親がよく焼いてくれていたこのケーキで祝うと決めている。
母親が大好きだったケーキは、いつしか優雨の好物にもなっていた。

九年前、優雨と弟の二人だけを遺し、父親と共に自動車事故で亡くなってしまった母。
その母の代わりにケーキを焼いて、今年も一人で自分の誕生日を祝う。

本来なら一緒に祝ってくれる筈の夫の姿はここには無い。
会社勤めの夫が平日の昼間に不在なのはいつものことだが、もし今家に居たとしても一緒にテーブルには着いてくれないだろう。
夫の良介はこのケーキの香りが嫌いなのだ。

もっとも、良介が誕生日を祝ってくれなくなってからはもう何年も経ってしまっていて……今ではその日付すら覚えていないのかもしれなかった。
そうでなければ、今朝も朝からあんなに酷いことを言う筈がない。

孤独な毎日、不毛な日々を変えたくて……働きに出たいと口にした優雨を、良介は「お前みたいなのろまな出来損ないが仕事なんか出来るわけないだろう」などと、途中で耳を塞いでしまいたくなるような言葉を使って罵った。

良介は、妻が社会と関わりを持つことを極端に嫌う夫だった。

更なるいさかいを恐れ、夫の前で耳を塞ぐことなどできない優雨は心を塞ぐ。

二人の間の問題に正面から向き合うことには、もう疲れ切ってしまっていた。

「お母さん……ありがとう」

沈んだ気持ちを何とかしたいと、そんな言葉を口にしてみる。

自分で自分におめでとうと言うのはおかしな気がして、ここ数年、誕生日には自分を生んでくれた母への感謝の言葉を口にするようにしていた。
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