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あの星に届かなくても
第3章 非日常のくぼみ

 狭い空間、三階のボタンを押した紗恵がわざとらしく胸を腕に押しつけるようにして寄りかかってくる。まるで不貞を働くためにホテルの一室に向かっているような気分だ。

「市川くんてなにか運動してる?」
「たまに走るくらいですよ」
「ふうん。意外とがっしりしてるのね」

 だからなんだというのだ、と心の中で言い返し、三階で止まったエレベーターから降りた。

「こっちよ」

 腕を引かれ、通路を進んで角部屋の前まで来た。さてこれで帰れると思った宗介の心を見透かしたのか、バッグの中から鍵を取り出した紗恵がふっと顔を上げる。

「やっぱりお茶でも飲んでいかない?」
「遠慮しときます」
「えーどうして」
「土屋さん、具合悪いんですよね」
「うーん」
「明日もシフト入ってるでしょ。今日はおとなしく休んでください。風邪でもひいたら旦那さんに心配かけますよ」
「心配なんてしないから。ねえ、上がっていって」
「……だからそれは勘弁してください。ほら、早く入って。俺もう帰りますよ」

 瞬間、紗恵の目の色が変わった。

「少しだけ……少しだけでいいから。さ、寂しいのよっ……」

 紗恵は震える声でそう言うと、その端麗な顔をみるみるうちに歪ませ悲痛なそれに変えた。
 そのとき、宗介はこの女を初めて不憫に思った。寂しい――そう言った紗恵の瞳は必死になにかを訴えかけてきて、その中に嘘があるようには見えなかった。
 同時に、その夫をも気の毒に思った。美しい妻は、夫が仕事で家を空けている間に別の男の腕に寄り添い、瞳を潤ませてすがり、寂しさを紛らわそうとしているのだから。

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