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いつかの春に君と
第4章 君が桜のとき
「…徹さん…?」
鬼塚はゆっくり立ち上がり、美鈴の前に立つ。
初めて、他人に自分の心の内を話したいと思った。
この女になら、話しても良いような気がしたのだ。

「…美鈴。俺には昔、とても愛したひとがいた」
…もう、その貌も朧げな遠い遠いひと…。
美鈴の眼が瞬きもせずに、鬼塚を見上げた。
「そのひとは…?」
「…亡くなった…」

昔は口にも出せなかった。
口に出すと、そのひとが消えていってしまいそうで怖かった。
…今は…微かな甘い痛みと共に話すことができた。
男は密かに自分の心の一部になっていたのだ。

「…そうなん…」
「…そのひとを亡くしてから俺は、ひとを愛したことがない。
愛する感情を…多分そのひとが持っていってしまったんだと思う…」
「…そうなんやね…」
美鈴は優しく微笑みながら言った。
「…あんたは、誰も愛してないような気がしとった…」

「…それから…俺は妹が一番大切だ。
妹は俺の全てだった。妹にもう一度会いたくて、地獄のような戦地でも生き延びてきた…。
今は…妹は俺などいなくても、頼りになる旦那に愛されているから心配はない。
…けれど、俺にとって一番大切なのは妹なんだ…。
これからも多分ずっと…」

…にいちゃん、私が一番大切よね?

幼い頃からずっと彷徨っていた運命の糸を、漸く手繰り寄せることができた。
それを生涯、絶つつもりはない。
絶つことはできない。
お互いに…。
それは鬼塚と小春だけの秘密だ。

「…うん…」
美鈴は怪訝な貌や嫌悪の表情を見せることはなかった。

「…俺はいびつで歪んでいる。
こんな俺でも良かったら…最初から始めてくれないか…?
出会いから、やり直したい。お前をもっと知りたいし、俺のことも知ってもらいたい。
…何より、お前を…愛したい」

美鈴は貌を歪め、ぽろぽろと涙を零した。
しっとりと濡れた涙ぼくろに手を伸ばす。
「…やっぱり綺麗だ…」
鬼塚の微笑みを見て、美鈴は更に泣いた。
「…うちも、あんたに相応しい女になる。芸を磨いて一流の芸者になる。
…踊りも小唄も…。
お三味線はもっと練習する…!」
鬼塚は小さく笑いながら美鈴を抱きしめた。
鯨の断末魔のような美鈴の三味線の音を思い出す。
「…三味線は…いいんじゃないか?」

美鈴は鬼塚を見上げ、思わず吹き出した。
…その唇を、鬼塚はそっと優しく奪った。





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