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僕の美しいひと
第1章 春の野良猫
「おい、郁未。何をぼんやりしているんだ」
丸めた書類で頭を叩かれ、嵯峨郁未ははっと我に帰る。
いつのまにか、院長室に戻っていた鬼塚徹が呆れたように郁未を見下ろしていた。

「…ああ、鬼塚くん。…ちょっと考えごとをしてた…」
慌てて苦笑しながら、鬼塚を見上げる。
薄茶色の眼鏡を掛けた鬼塚は、ふっと笑いを漏らす。
「お前は昔からぼんやりだからな。
…全くよく院長が勤まっているよな。
まあ、どっちかというと生徒たちがお前の心配をしている感じだがな」

にやりと笑った鬼塚に、郁未は頬を膨らませ抗議する。
「なんだよ、いつまでも子ども扱いして」
「頼もしくなったとは思ってるさ」
…と、鬼塚の手が伸びて郁未の白い頬を軽く抓る。
一気に体温が上がる。

「こんな可愛い貌して院長だなんて、頑張っているんだろうな…てさ」
眼鏡の奥の目が優しく笑いかける。
忘れていた胸の痛みが蘇る。
わざとぞんざいにその手を振り払う。
鬼塚に背を向け、ぶっきらぼうに告げる。
「僕に構う暇があったらもう帰ったら?
…新婚なのに毎日帰りが遅いんじゃ、早々に美鈴さんに愛想つかされるよ」
鬼塚は少し照れたような笑みを、その強面だが端正な貌に浮かべた。
「…まあな…」
郁未はその幸せそうな表情を一抹の寂しさを感じながら見つめる。

「…今日は美鈴の誕生日なんだ…」
恥ずかしそうに小さく呟く鬼塚に、郁未は慌てて声をかける。
「じゃあ早く帰ってあげてよ!美鈴さん、喜ぶよ」

鬼塚は素直に頷いた。
そうして、その大きな手で郁未の髪をくしゃりと撫でた。
「ありがとう。お前は優しい奴だな」
郁未は高まる体温を勘付かれないように息を潜める。

鬼塚に触れられると、平気ではいられない。
…何年経っても…。

…その温かな手も優しい微笑みも…もう、他人のものなのに…。
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