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マスタード
第8章 別離
そんな過去を自分にだけ話してくれた愛美の気持ちを大事にしたい。だからその闇は自分が受け入れて墓場まで持っていくと覚悟していた。

「もう愛美には二度とそんな辛い思いはして欲しくない」と言った奏の言葉は震えていた。

「もし愛美をそんな辛い目に遭わせたら、いくら助けてくれたあんたでも絶対に許さない」

奏の声は秀一の心に響いた。この男は本当に愛美が幸せでいてくれることだけを願っている。

「オレもあの痣を見た時に、あんたと同じ思いだった。愛美が辛かったことを思って泣いたし、愛美をあんな目に遭わせた男たちを許せないと思った。絶対に愛美を幸せにすると誓うよ」

「ありがとう。言い忘れていたけど、おめでとう。愛美と陽葵のことをよろしくお願いします」

奏と秀一は電話越しに微笑みをかわして通話は終了した。

電話が終わると奏は堪えていたものが溢れてくるように大粒の涙を流した。

終わった。多分人生で最高に愛した愛美との恋、陽葵の父親は終わった。
いつかこんな時が来るのを覚悟はしていた。結婚もできずに、どんなに真剣に愛しても不倫に分類されてしまう関係をズルズルと続けてしまうのは愛美のためにも陽葵のためにもよくないことは分かっていた。

それなのに長い間こんな関係を続けてしまって申し訳なかったという気持ちでいっぱいだ。

あの秀一という男の愛美への気持ちは本物だ。きっと愛美や陽葵を幸せにしてくれるだろう。

「愛美、陽葵、幸せになるんだよ」

奏はビールテイストを愛美と陽葵に掲げて涙の乾杯をした。

電車で飲むつもりだったビールテイストは殆どを飲んでしまったので、愛美への気持ちに踏ん切りを付けるように空き缶をゴミ箱に処分するとビールテイストを買い足すために駅を出た。

随分長い間話をしていたように感じるが、予定の電車より1時間ちょっと遅い電車になっただけだった。ゆっくり買い足しに行っても電車には充分時間がある。

街は終わりが近づいているイベントで盛り上っているようだ。この数年で街の様子も随分と変わってしまったとしみじみ思って街並みを見渡してみる。

色々な思い出が浮かんでは消え、浮かんではは消えていく。
『囲炉裏』、愛美、陽葵という最愛の存在も消えていってしまった。

ウイルス感染などということがなければ、『囲炉裏』の経営が苦しくならずに、こんな結末にもならなかった。

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