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きのうの夜は
第9章 加仁湯

私たちは、日光沢温泉に着くと誰かいないかと呼び鈴を鳴らした。
だが、一向に人が出てくる気配はなかった。

半分諦めていた時だった。
宿から一人の男性が出てきたのだ。

私はその男性にこう聞いてみた。

「あの、露天風呂だけ入りたいんですけど…」
「ええ、構いませんよ…」

「入湯料はいくらですか?」
「600円ですよ…」

そう言われたので私たちは600円の入湯料を支払った。
露天風呂に行くと本当に囲いなども殆どなくてどこで着替えて良いのか分からなかった。

まだ、朝早くだったので誰も露天風呂にはいなかった。
私は、上手く服を脱ぎバスタオルを巻いて露天風呂につま先から入ってゆく。

吉村はすでに湯に浸かっていた。
私が湯に浸かると直ぐに私を後ろ向きにして抱きかかえてくる。

私は少しイヤだったが、そのままで湯に浸かっていた。
聞こえるのは川のせせらぎと鳥のさえずりだけだった。

鬼怒川沿いにある露天風呂からは険しい山肌が見えていた。
その山肌に一頭の鹿だろうか。

その鹿だけが私たちの入浴を見ていたのだ。
後ろから吉村が耳元で囁く。

「俺、彩夏とこうしているのが一番幸せなんだ…」

私は、何も返事ができなかった。

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