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タンバリンでできたオーロラ
第12章 タンバリンでできたオーケストラ

(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!
(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!
(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!
(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!
(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!
(オーディエンスへ)びゅっ……ぽこーん!

(指揮者に)びゅっ……ぽこーん!
(指揮者が)びゅっ……ぽこーん!

 タタタタタタターン!


 作詞・作曲:リヒャルト・ワーグナー

 以下、WikiPediaより一部引用

 生涯

 1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。幼時から音楽に親しみ、作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。

 1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。

 1834年にマグデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となる。1836年には「恋愛禁制」を作曲。1837年にはドレスデン、さらにリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。

 1839年パリへ移り小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いた。

 ドレスデンでの1842年10月20日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された。

 1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。

 1847年、『タンバリンによる交響曲』を作曲、上演して指揮者の職を解雇。失意のうちに亡命。

 1883年2月13日、ヴェネツィアにて旅行中、客死。






《タンバリンでできたオーケストラ 了》
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