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先生と私
第5章 88keys,10fingers, No Problem
師走はイベントが増える。コンパニオンの仕事に比べたら、ピアノを弾く仕事は、たいしたお金にはならない。

今年は珍しく、クリスマス前の早い時期に依頼された。
静かな曲を…とだけ言われた。

お店の雰囲気や客層で選曲や組み合わせなどを自分で考え、古い楽譜を戸棚から引っ張り出した。洋楽やJ-popなどの今年の流行を調べた。コンパニオンのバイト前に、楽器店に寄って、素敵なアレンジを見つけたりすることが楽しかった。

…瑛二が言ってたノクターン。

埃をかぶった段ボール箱を天袋から引きずりだした。一番古いノートには母の字で書かれていた。3冊目辺りからへたくそな字で「れんしゅうノート」になった。この辺りからは、何となく覚えている。毎週の課題、注意する点などを書きなぐっていた。

あっという間にその日が来てしまった。ドキドキしながら言われた通り、店の裏口から入った。

ひとりの男性がコートを脱ぎマネージャーと話をしているところだった。マネージャーはちらりと私の顔を見た。

「あ…ごめん…君は今日はいいや…来てくれたのに悪いね。」

あっさり断わられた。スタッフが後から追いかけてきて、約束した全額ではないけれど、交通費ぐらいにはなるだろうからと封筒をくれた。

マネージャーの手違い。演奏者のダブルブッキング。

…こんなことは慣れっこだ。ピアノを弾ける人は沢山いるし、私じゃ無くても良いことはわかっている。

帰り道は、長くとても寒く感じた。マンションに戻り、玄関でパンプスを脱いた。廊下に大きなバッグを投げ出すと、冷たい床の上にスコアがカードの手札のように広がった。

今の私にはそれを拾い集める気力も無かった。昼間 天袋から出した練習ノートが目に留まった。最後のノートの表紙には、

――― 88 keys,10fingers, No Problem

毎日ピアノばかり弾いて、練習すればする分だけ上手くなると信じ、自信に満ち溢れていた。

…寝てしまえば、どうせまた新しい朝が来る

くすんだ気持ちは私の中にインク染みのようにジワジワと広がっていき、行き場所を失い気が付くと頬を伝って零れ落ちていた。
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