『約束』1/2
今、不意に思い出した。
俺は小さい頃、親父にこう言われて叱られた。
「男は人前で泣くな、男が人前で泣いていいのは、母親が死んだときだけだ」
転んだときも、いじめられて帰ってきたときも、普段あまりしゃべらない親父が、その時だけ俺の目を見て説いた。
飼い犬のジョンが死んだときだった。
俺は訊いた。
「お父さんも、そうだった?」
「ああ、そうだ……だから、これからは泣くな……約束だ」
「うん……」
守れる自信はなかったが、俺はうなずいた。
でも、それ以来泣くことはなかった。
七月の午後の日差しが、まぶしいくらいに白い部屋に充満していた。
さっきから母につながれた機械が、ピーっという耳障りな音を立て続けていた。
看護師の一人が、母のパジャマの胸を開け、そこに両腕を突き立て、リズミカルに押している。
もう一人は、ラグビーボールを小さくしたような物を両手で握っては母の口に空気を送っている。
俺と姉と親父は、それを立って見ていた。
母の胸を押している看護師が、俺たちに向かって言う。
「ここへ来て、呼びかけてください!」
三つ上の、三十三歳になる姉が、真っ先にベッドに駆け寄った。
「お母さん! お母さん!」
母の手を握りしめ、耳元で叫ぶ。
俺は、後ろに立っているはずの親父を見た。
だが、そこいなかった。
首を振り、探したが、その姿はなかった。
こんな時に、どこへいったんだ!
看護師が再度言う。
「こっちへ来て、呼びかけてください!」
俺は枕元に立って母を見下ろした。
胸を押されて母の体が激しく振動している。
だが顔の表情はピクリとも動かなかった。
薄目を開けて、白目だけが覗いていた。
「お母さん!」
俺は叫んだ。
「お母さん! 私よ! お母さん!」
姉の声が次第に涙声になってきている。
なにやってんだ、親父!
早く来いよ!
でないと、もう……。
ピーっという電子音は鳴り続けたままだ。
鳴ってから何分経っただろう。
胸を押している看護師が汗をぬぐう。
そして、空気を送っている看護師に小声で言った。
「先生、呼んできて」
言われた看護師は、すぐさま器具から手を離すと病室を出て行った。
それを目で追った。
ドアが開き、閉まる。
親父の姿はドアの外には見えなかった。
どこ行ったんだ!
「お母さーん……お母さーん……」
姉の声が徐々に弱々しくなってきた。
つづく……。
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蒼井シリウスさんの日記
ベリーショートショート その8
[作成日] 2014-09-17 12:59:57