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花菱落つ
第4章 義信
「凪というのはそなたか」
「はい、左様にございます」
「控えよ。こちらは義信様のご正室様であらせられる」
「奥方様……」

 義信の正室だという女性は義信より少し年下の二十代前半だろうか。柔らかな色合いの小袖を身につけ、大勢の供を連れて毅然とその場に立っていた。箒を持ったまま立ち尽くしていた凪は慌ててその場に畏まった。正室は凍てつくような眼差しで凪を見下ろしている。

「そなたが我が夫、義信様と懇ろの仲だと申す者がおるのじゃ。義信様がそなたを側室に望んでおるとな。我が前にて真(まこと)のことを申してみよ」

 境内で立ち話をするだけで側室とは、一体誰が正室に告げたものか。立ち居振舞いには充分気をつけていたつもりだったが、予想もしなかった展開に凪は困惑した。

「義信様と懇ろの仲など、畏れ多いことにございます。親しくお言葉をいただいてはおりますが、義信様は雲の上のお方。側室にとのお話など一度たりとてございませぬ」
「義信様は軽々しく女性と言葉を交わすようなお方ではない。今すぐではなくとも、いずれ側室に成り上がるつもりであろう」
「いいえ、滅相もございませぬ」
「では、そなたは義信様の側室にはなりとうないと申すか」

 悋気(りんき)がおかしな方角に向き始め、凪は内心嘆息した。この様子ではどのように答えても、正室の癇に障るに違いない。埒が開かないと感じた凪は立ち上がり、正室に近寄った。凪は長身のため正室を見下ろす形になる。

「な、何じゃ」
「失礼いたします」

 凪は正室の白魚のような手を取った。今川義元の姫として生まれ、生まれてこのかた箸より重いものは持ったことのない、手荒れとは無縁の滑らかな美しい手だった。凪が真田源五郎にしたように正室の手を緋袴に当てると、正室は驚きに口と目を同時に開いた。

「そなた――」
「どんなに望もうと、私は側室になれぬのです」

 高い背丈、平らな胸、少女にしては低く落ち着いた声。そして袴の下にある物。凪が男であることを、正室は知った。
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