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堕天
第1章 堕天
 寝室はむせ返るような花の香りに包まれていた。部屋に足を踏み入れた者はたちまち気分が悪くなるほど濃密な香り。床に置かれた黄金細工の香炉からは妖しい紫色の煙がゆらゆらと立ち上っていた。

 中央に鎮座した大きな寝台には一糸纏わぬ姿で横たわるセラフィエルの姿があった。しかし美しい色違いの瞳は宙を見つめたまま、硝子細工のように動かない。

「やっと手に入れた僕の美しい人形……」

 心を閉ざし抜け殻と化したセラフィエルに、アシュタートは口づけた。だがセラフィエルは虚ろな眼差しでどこか遠くを見つめたまま、微動だにしない。アシュタートは紅い舌でちろちろとセラフィエルの裸身を舐め始めた。子供が人形を愛でるが如く、全身をくまなく舌でなぞってゆく。セラフィエルがアシュタートの手に落ちて以来数百年、毎日のようにセラフィエルの元にやって来ては欲望の捌け口にしていた。

「強情だよね、君もさ。でも本当の神様なんて、この世にはいないんだよ。だって神様は君を助けてもくれなかったでしょう?」

 突然、セラフィエルは無表情のまま びくびくと身体を退け反らせた。「神様」という言葉に反応したように見える。

 アシュタートに襲われたセラフィエルを、神は助けなかった。どれだけ必死に祈っても、返ってきたのは眩い沈黙のみ。確かにそこにいるのに、神はセラフィエルに応えなかった。

「Quo vadis, Domine」 

 セラフィエルの虚ろな瞳から、透明な涙なが一筋流れた。涙が寝台に零れ落ちるとセラフィエルは身体を大きく跳ねさせた。背中の傷痕が盛り上がり、めりめりと音を立てて裂ける。裂け目から現れたのは漆黒の翼。六枚すべての翼が生え揃ったとき、額に逆さ十字の痣が浮かび上がった。

 それは堕天の証。
 神に見放されたセラフィエルが、神を見放した瞬間だった。

「我が、忠誠を、アシュタート様、に……」

 セラフィエルはゆっくりと顔を上げた。煌めく銀糸のようだった髪は夜の闇よりも黒く染まり、白い顔を縁取った。 金の瞳は変わらないが、澄んだ空色の瞳は禍々しい深紅に変わっていた。

「ふふ、いい子だ。たっぷりと可愛がってあげるよ。僕が飽きるまで、ね」

 これ以降、堕天使セラフィエルは、魔王アシュタートの右腕として長く君臨することになる。
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