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滲む墨痕
第3章 雪泥鴻爪

 着替えて野島屋を出る頃には午後八時を回っていた。宴会終了時間は九時。本来ならばその片付けで十一時くらいまでは拘束されるはずなので、いつもより早い帰宅に少なからず罪悪感を覚える。
 でも、と潤は思い直した。今の自分では居続けるほうが周りに迷惑をかけてしまう。もう来なくてよい――そう言った女将の顔は真剣そのものだった。異議を寄せつけない、吹雪に似た冷たい迫力があった。

 一歩外に出れば、刺すような冷気で満たされた薄闇の中を粉雪が舞っていた。地面をうっすらと覆う白い絨毯をフラットパンプスで踏みしめて進めば、さく、さく、と積もりたての結晶が壊れる音がする。

「寒い……」

 雪明かりを頼りに野島家の離れに向かって歩いていた潤だったが、ふとそこへ帰ろうとしていることに虚しさを感じて立ち止まった。
 もし本当にもう野島屋で働くことを許されないのなら、自分はいったいなんのためにここに立っているのか。どこに帰ればよいのか。

――君は俺の隣で黙って笑っていればいいから。

 甦った誠二郎の言葉は、潤が自分自身を無意味で無価値なものだと確信するのに充分な残酷さがあった。

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