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いつかの春に君と
第1章 桜のもとにて君と別れ
「少し、歩こう」
男は鬼塚を散歩に誘った。
ホテルの目の前にある日比谷公園のプロムナードを二人並んで歩く。
中央にある大きな噴水がガス灯に夢のように煌めいている。

「…あ…!」
鬼塚は思わず立ち止まった。
噴水の向こうには夜目にも鮮やかな薄紅色に輝く染井吉野が満開の時を迎えていた。

茫然と見惚れる鬼塚を、男は黙って見守っていた。
「…綺麗ですね…」
声に出すのも惜しいほど、桜の美しさに圧倒される。
「…こんなに綺麗な桜を、初めて見ました」
…花見をするような、ゆとりのある生活を送ったことなどなかった。
男に引き取られてからは、鍛錬と学習に忙しく…また外に出ることは滅多になかったからだ。

「…お前に、この桜を見せたかった…」
男は満開の桜の木の下に立ち、見上げる。
男の硬質な横顔にどこか切なげな表情が透けて見えた。

「…昔、まだ私が若い頃、この桜を友と見た。
不思議だな。私はすっかり変わってしまったのに、この桜はあの時のままだ…」
…あのひとのことかな…。
海軍士官の白い軍服のひと…。
美しいひとだった。
傍らには今とは別人のように陽気な表情を見せる男の姿があった。
…和葉、我、御身だけを愛す…。
今も愛しているひと。
他にはもう誰も愛さないと心に誓ったほど、愛しているひと…。

男がゆっくりと鬼塚を見下ろす。
「…私はお前を軍人に育てあげようと思ったことを今、後悔している…」
鬼塚は思わず叫んだ。
「どうしてですか?俺は大佐みたいな軍人になりたいのに…!」
強い力を持ちたい。
誰にも自分や小春の人生を左右されないような強い力を持ちたかった。
あの日、自分の目の前に現れた男はその象徴だった。
それなのに、なぜ後悔するのか?

「俺は大佐みたいな軍人になりたい。そしてこの国をアナーキストや売国奴から守りたい。陛下をお守りしたい。大佐みたいに…!」

熱弁を奮う鬼塚の身体を不意に男が抱き竦めた。
苦しげに呻くような言葉が漏れる。
「…お前を失いたくないからだ。もう…あんな思いはしたくない…。そう思って生きて来たというのに…!」
…外国煙草の匂い…。
逞しい男の身体は震えていた。
…あの愛の唄が蘇る。

…いつか、街角の灯りの下で会いましょう。
昔みたいに…。

二度と…会うことは叶わなかった男の恋人…。
男は、ずっと灯りの下で待ち続けていたのだろう。
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