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女鑑~おんなかがみ~
第16章 献身
あの日桜の下で,無邪気に駆け寄ろうとした弟の顔が一瞬で蒼白になったのが分かった。
弟に顔を見られたくないのと同時に,弟の顔が怖くて見られなかったから,無我夢中でみやこ呉服の旦那様の袖に顔を隠した。
顔を隠したまま,もう戻れないと思った。

けれど・・・・・・・
中年の女将となった久子は改めて当時のことを思い出す。
あの日,遠足に来た弟から顔を隠して,旦那様の袖で泣いたときの悲しみは今でも悲しみのままで思い出すのに,その前後の過酷な日々の思い出はなぜどれも今では甘酸っぱいのだろう。

厳しい稽古,朋輩の嫉妬による嫌がらせ,そして…。
「あの旦那様をヒキガエルとは,輝虎の観察力も大したものだこと」
久子は改めて,この前に会った輝虎のことばを思い出した。

誰よりも美しく,踊りが上手いと皆から褒められて,良い気持ちになっていた。
その見返りが,あのような恐ろしいことだったとは夢にも思わなかった。

三十年以上たった今でも,あのときの恐怖と痛みを忘れたことはない。
自分の身体がこれからどうなるのか,先のことが分からない心細さで,それでも泣いてはいけないと思って,男の腕にしがみついた。
本当は逃げ出したくてたまらなかったけれど,弟を帝大に行かせるために・・・・・。
赤の他人をおかあさん,おねえさんと呼びながら暮らす置屋での暮らしで肩身の狭さを感じずにいるために・・・。

祝儀として皆がうらやむような上等の着物が大量に届けられた。
それだけでなく,同じ置屋にいたほかの人たちの着物や,幼い見習の少女たちの着物まで届けられた。
「小紫がみやこ呉服さんに可愛がってもらったおかげで,みんないい思いさせてもろうておおきに・・・」と皆に感謝される。

しかししばらくすると年長の芸妓らの内緒話も聞こえた。
「うちはあんな気色悪いおっさんは勘弁やけど,みやこ呉服はんの着物がもらえるのはありがたいね。辛抱強いのが取り柄の娘がきてくれて助かりましたわ」
「踊りでも三味線でもお作法でも一番褒められて,お武家でございます,みたいにツンとしている小紫が,あの助平なガマガエルにめちゃくちゃにされてるんやと思ったら,すっとするわ」
「あの子も,上品ぶった顔してるけど,まんざらでもなさそうね」

それで皆の留飲が下がるのなら,それでよいと思った。
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