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蘇州の夜啼鳥
第1章 ランタンの月
「構わないよ。
一晩と言わずにあの娘が良くなるまでここに泊まっておいきな」
事情を話すと、女将は二つ返事で宿泊を了承してくれた。
片岡はほっとして頭を下げた。
「宿泊代金はそちらの言い値で払います。
いくらでも構いません」

女将は眉を寄せた。
「馬鹿を言うんじゃないよ。
どうせ使ってなかった部屋なんだ。
…でもお金を取らなきゃあんたは余計気を使うだろうから、以前に営業していた時の値段でいいかい?」
「もちろんです。ありがとうございます」

…じゃあ、氷と洗面器を用意してくるよ。
そう言いながらてきぱきと立ち去ろうとする女将に、片岡はふと疑問を投げかける。

「…あの。
どうしてそんなにご親切にしてくださるのですか?」
「…え?」
女将は振り返る。

「…中国の方が日本人に必ずしも良い感情をお持ちではないことは承知しております。
過去の歴史で、色々ありましたから…」

ふうんと女将はふくよかな貌にどこか懐かしいような不思議な表情を浮かべた。
「…そうだね。この国とあんたの国とは色々あったね。
不幸な出来事もたくさんね…」

…でも…。
…と、女将はとっておきの秘密の昔話を話すように、穏やかに語り始めた。

「…あたしのお祖母さんは昔、日本の華族様に乳母としてお仕えしていたんだよ。
…綺麗だけれどとにかくやんちゃなお坊っちゃまと天使みたいに可愛らしいお嬢ちゃまのお二人にね…。
大層ご立派なお屋敷だったそうだよ。
…夢のように豪華なお屋敷だったそうさ…。
奥様は男勝りな…それはそれはお美しい方でね…。
戦時中も聖林女優みたいなドレスをお召しだったそうさ。
けれど、気さくで陽気な奥様だったらしい。
…当主様はこれまた美男子な男爵様だったけれど、とてもお優しい人格者でね。
戦争が激しくなって祖国に帰れなくなった祖母を、最後まで屋敷に留め置いてくださったんだ。
…祖母には謂れのないスパイ容疑まで掛かってしまったんだけど、それでも旦那様は憲兵隊や特高から幾度も守ってくださって…祖母は戦後無事に中国に帰ることが出来たんだ。
…祖母はずっと小さなあたしに話してくれたよ。
アガタ様は私の命の恩人だ…てね。
あんたも困っている日本人には、優しくしなくちゃいけないよ…てね」
「…マダム…」

女将はにっこり笑った。
「だからあたしはバァバの遺言を守っているだけなのさ」

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