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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第4章 Valet & Earl 〜従者と伯爵〜
「…先ほどは大変失礼いたしました」
着替え室で、狭霧は殊勝に詫びながら、伯爵に上着を着せかける。

「ああ、新聞ね」
さらりと上着を着込み、鏡越しに狭霧に悪戯めいた笑みを送る。
「大胆な模様で驚いたよ。
最近のル・フィガロにはアバンギャルドな広告が載るのだなあ…とね」
…アイロンの焦げ跡を、ユーモアたっぷりに比喩したのだ。
北白川伯爵は狭霧が失敗や失態をしても決して叱らない。
だから尚更、申し訳なく恐縮してしまうのだ。

「すみま…申し訳ありません」
眼を合わせられずに、俯き勝ちに詫びを繰り返す。

「大使館で読むから大丈夫だよ」
…それよりも…

くるりと向きを変え、狭霧の正面に立つ。
北白川伯爵は背が高い。
175センチある狭霧は、長身に部類する方だと思うのだが、伯爵は狭霧より10センチ以上高い。
だから前に立たれると、自分が未熟でか弱い少女にでもなったかのような妙な錯覚に陥るのだ。

伯爵が狭霧をじっと見つめる。
どきりとした刹那、顎を捕らえられ上を向かされた。
…夜間飛行が華麗に薫る…。
昨夜の光景が鮮やかに甦り、狭霧は息を呑む。
「…っ…!」

伯爵の黒曜石色の瞳が、愉しげに笑っていた。
「君にはアイロンを焦がすほどに悩ましい悩みでもあるのかね?」
狭霧の胸中など、とっくに見透かしている様子だ。

…このひと、面白がっている…!
狭霧は些かむっとし、眦を上げて伯爵を見返した。
「いいえ、旦那様。
瑣末なことですから、お気になさらず」

北白川伯爵は端正な片眉を上げ、微笑んだ。
「…それは残念だ。
もう少し、悩んで欲しかったな。
憂いの表情の君は麗しいからね」
「はあ?」
…やっぱり揶揄ってる!
抗議しようと口を開きかけた時、伯爵はポケットチーフを直しながらさらりと告げた。

「…来月、日本に帰国することになった。
久しぶりに長期休暇が取れたのでね。
狭霧、もちろん君も一緒だ」
「え…?
日本…に?」
突然の話に、手にした衣装ブラシを取り落としそうになる。

「三月にパリを発って、四月には日本だ。
…久々に日本の桜を見られるぞ」
北白川伯爵は朗らかにそう告げると、マレーの待ち構える隣室に颯爽と向かったのだった。




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