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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第4章 Valet & Earl 〜従者と伯爵〜
…眼の前で繰り広げられる光景に、狭霧は思わず息を呑んだ。

すらりと背の高い黒髪の紳士が、まるで秘事の最中のような色香の滲む声で囁いていたのだ。
「…今宵はおよしになった方がよろしいのではないですか?
モロー男爵夫人。
ご主人がさきほどから貴女を探しておられましたよ」
…その声は諫めるように静かだが、微かに艶を帯びていた。

「つれないことを仰らないで。伯爵。
いいえ、タカアキ…。
…この間の夜は素敵でしたわ。
あんなに熱く激しく愛し合ったのに、貴方はまるでそれをなかったことになさりたいの?」
詰るような言葉と裏腹に、その声は男に媚びるように甘ったるい。
…女は美しい金髪を緩く夜会巻きに結い上げ、その白い肌には豪奢で煌びやかなダークチェリー色のタフタのドレスを身につけていた。
色香の漂う貌には美しく化粧が施され、真紅に塗られたぽってりとした口唇の横には仇めいたつけぼくろがあった。

「…とんでもない。
私は貴女の哀れな恋の奴隷ですよ。
…貴女には私以外にもたくさんの信奉者がいらっしゃる。
私などを末席に加えていただけたことは、生涯の勲章でしょう」
…男、北白川伯爵の声はあくまでも優しく…余裕に満ちていた…。

「そんなことおっしゃって。
私に本気ではないくせに。
…貴方はどなたにも本気にはならないのよね。
誰にでもお優しいけれど、それは貴方が誰も愛していない証拠だわ」
しんみりと、意外なほどに寂しげな声が響く。

「…モロー男爵夫人…」
北白川伯爵が口を開く前に、女は伯爵の首筋に白い腕を絡めた。
「…けれどいいの。
ひとときの気まぐれでも…。
どうせ愛なんて、単なるまやかしですもの」

…キスして…タカアキ…。
その扇情的な声が、薄暗い階段室に響いた。

「…モロー男爵夫人…」
「イザベルよ…タカアキ…」
甘美な蜜のような声に導かれるように、男の貌が近づく。
「…イザベル…」
女の白く小さな貌を引き寄せ、口づける刹那…ふと、狭霧と眼が合った。

狭霧は息を呑み、立ち尽くす。

…男…北白川伯爵は、驚きも狼狽もしなかった。
ただ、いつものように優しく…微かな淫靡な色を煌めかせた微笑みを狭霧に返した。

…そうしてそのまま、女に情熱的で巧みな口づけを与えたのだった。







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