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海に映る月の道 〜last tango in Paris〜
第4章 Valet & Earl 〜従者と伯爵〜
「どうして…て…」
狭霧は脚を止める。
…苦しげに、口唇を開く。
「…俺はもう人を愛して、辛い思いをするのは嫌なんだ…」
和彦は、自分と出会ったせいでこんな異国で事件に巻き込まれ、亡くなった。
その後悔から、自分は未だに逃れられない。

…それに…。

「…誰かを愛したら、和彦を忘れてしまいそうになる…。
それが怖い…」
口に出した途端、それが現実になりそうで、狭霧は身震いする。

じっと狭霧の言葉を聞き入っていた伯爵のリードが、再び始まる。
ヨハン・シュトラウスの華麗で優美な調べが、夜風に優しく乗る。

「…それはきっと違うな…」

狭霧は思わず瞳を上げた。
「…え?」

伯爵の蒼みがかった黒い瞳が真っ直ぐに狭霧を見下ろしていた。
「誰かを愛しても、君の中から和彦くんが消えることはない。
愛は誰かを消し去ったりはしない。
愛は広がってゆくものだと、私は思う」
「…旦那様…」

…不意に、伯爵がステップの脚を止めた。
「あっ…」
そのまま伯爵の胸に倒れ込みそうになる狭霧を、男はしっかりと抱き留めた。
…夜間飛行のひんやりとスパイシーな芳薫に包まれる。
胸の鼓動が速くなる。

微かに躊躇いの色を浮かべながら、それでも真摯な声で伯爵は語りかけた。
「…例えば、私が…」

「…え?」
狭霧は聞き返す。

「…私が…君を…」
彼らしくなく、口籠る。

「…旦那様…?」

…伯爵が再び口唇を開こうとした刹那、舞踏室の扉が開かれ、華やかなドレスの貴婦人や令嬢たちが、笑いさざめきながら、こちらに駆け寄った。

「こんなところにいらしたの?
monsieurキタシラカワ。
私とワルツを踊ってくださる約束でしたわ」
「あら、私よ。
私は先週からお約束していてよ」
「失礼ですけれど、私の方が先ですわ。
先月から、予約いたしましたのよ。
ねえ、monsieurキタシラカワ?」

たちまち北白川伯爵は、着飾った貴婦人たちに囲まれた。
伯爵はふっと、朗らかな人好きのする笑みを浮かべた。
そうして恭しく優雅に、胸に手を当てた。

「…それは光栄です。
では、参りましょう。
…皆様方の恋人に決闘を申し込まれる前に、踊らなくてはなりませんね。
何しろこんなにもお美しいレディたちを独り占めするのですから」




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