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夜をほどく
第2章 触れられない温度
夫の背中を見送る朝は、いつも同じ音で始まる。
食器が触れ合う音。ドアの開閉音。そして沈黙。

紗江はテーブルの上のコーヒーに手を伸ばす。湯気が消える前に口をつけるが、その苦味は何も刺激してはくれない。結婚五年目。温度も湿度も、言葉の気配すらも、互いに測ることをやめた夫婦の朝。

職場は、その無音から逃れる唯一の場所だった。

広告代理店の制作部で働く紗江は、仕事をこなすことだけに集中していた。
そんな日々に、異物のように現れたのが――直属の上司、一条光貴。

三十代後半、鋭い目元に無駄のない言葉。どこかの政治家のような冷ややかさと、煙草と香水が混じったような匂いを纏う男だった。

部下に対しても遠慮はない。成果を出せない者には容赦なく、言葉は鋭利な刃のように突き刺さる。
当然、紗江も例外ではなく、何度となくその目に晒されてきた。

けれど――。

その日、夜遅くまで残業していた紗江は、会議室で一人飲んでいる光貴の姿を目にする。
乱れたネクタイ。ほどけた視線。静かに吸われていく煙草。
その男から、いつもの鋭さが消えていた。

「……誰かに、壊してほしかったんですか?」

気づけば、そんな言葉が喉まで上っていた。

触れてはいけないと思いながら、どうしても目を逸らせなかった。
冷たさの奥にある熱。それは、夫には感じたことのない温度だった。
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